赤き月は巡りて
【第二章 空襲】横濱大空襲

 そんなやりとりがあったこともやがて忘れ、私は貯金局に勤めるようになっていた。  市役所と近いので、いつも父と一緒に出かける。近頃は空襲警報が増えてきたので、少しでも父といられるのは安心だった。  けれども、五月二十九日の空襲警報は結局別々の場所で聞くことになる。  その日はとてもよい天気だった。  貯金局に着いた途端、空襲警報のサイレンが鳴り、空からバラバラと機銃掃射の弾が落ちてくるのが窓から見えた。出勤していた人たちみんなで外に出ると、空には既にB29の編隊が銀色に光っていた。海から向かってくるB29は次々と焼夷弾を投下し、シューシューという音が絶え間なく聞こえる。 「野毛山へ行こう!」  誰かの声を合図に全員で走り出した。  B29は私たちの上に覆い被さるほどの数で、辺りはたちまち黒煙と火の海に変わっていく。  ふと気づくとすぐ前を同僚の女の子が走っている。親しい人と合流できた嬉しさで肩に手をかけようとした瞬間、彼女のもんぺの裾に火が燃え移るのが見えた。助ける間もなく彼女は絶叫とともに炎に飲まれていく。私は恐ろしさのあまり、同僚を見捨てて先を急いだ。人に構っていては助からない。  そこいら中が燃えているので空気そのものが熱く、熱風で焼け死にそうだ。それを証明するかのように大岡川に浮いている製材用の丸太が薄黒く焼けているのが見えた。  野毛山の防空壕まではまだ遠い。平時ならまだしも、この猛火の中を野毛山まで辿り着ける自信はない。  見れば大岡川に飛び込む人がいる。川に浮かぶ丸太ですら焼けるのだから、水の中で助かるとは限らない。しかも防空壕とは違い、上空から丸見えだ。  しかし、迷っている時間はない。私は意を決してどぶのような大岡川に飛び込んだ。服が泥水を吸い込んで重くなったが、川に入ったからにはと防空頭巾もどぶ臭い泥水で濡らした。  そうしているうちに風が吹くたび火の手が川岸をなめるように這っていき、その跡には黒焦げの人の山ができていった。  川に浮かんでいる人の中には力尽きて溺れる人などが多く見られる。  寒さを感じているわけではないのに震えが止まらない。 「お父さん! お父さん!」  周囲の絶叫に混じって私も叫ばずにはいられなかった。声を出せばそれだけ体力を消耗するとわかっていても、そうしなければ正気を保てそうもなかった。 「義之さん!」  思わず忘れかけていた人の名が口をついて出てきた。  あの人は無事だろうか。一度会ったきりで、職場もどこなのかわからない。もし、お互い無事であったならもう一度会いたいと強く思った。 「義之さん! 義之さん! どうか無事でいて!」  自分のことさえどうなるかわからないというのに、私の頭の中はあの人のことでいっぱいになった。なぜ忘れかけていたのだろう。 「市太!」  はっとした。  たった今、この口から出た名前は……!  そう、あの時も川に入っていた。こんなどぶ川ではなくもっと清い川に。白装束で。その晩、空に浮かんでいたのは真っ赤な月。  長い間しまいこまれていた記憶が、みるみる甦ってくる。  これは私の記憶……?  記憶の中の私たちは姿も名前も今とは違う。そもそも時代が古すぎる。それじゃあまるで生まれ変わりではないか。まさかそんなことが。  B29の轟音も、耳をつんざくような人々の悲鳴も消えた。熱風の熱さも焦げた臭いも消えた。  あるのは大切なあの人と赤い月の記憶。それは今まで忘れていたのが信じられないほど確かな記憶。  なぜだかはわからないけれど、これは確かに私の記憶なのだ。間違いなくかつて私の身に起こったことなのだ。  ああ、そのことをあの人はもう知っていたのだ。だからあの日私に覚えているかと聞いたのだ。ぼくを覚えているか、赤い月を覚えているかと。  なぜあの時思い出せなかったのだろう。こんなにも鮮やかな記憶を。  風向きが変わり、劫火が川岸にいた人々を焼き尽くす。  私はわれに返った。生き残るんだ。さっきまでよりも強く心に誓う。生きてあの人に会いに行かなければ。  「思い出したら会いにきてくれないか」と言った義之さんの声を思い出す。あの時私は頷いた。約束は果たさなければ。なんとしても。  泥水か熱風か煙かどれのせいかわからないが、目がひどく痛み開けていられない。目を閉じたまま何度も泥水をかぶってこの地獄の業火を乗り切ろうと必死だった。  体力も気力も消耗し、意識が朦朧としてきたころ、辺りが静かなのに気がついた。  川に入った人のほとんどは材木のように浮かんでいた。すでに亡き人となっているのはあきらかだった。わずかに息のある人たちも心がここにあるようにはとても見えない。きっとはたから見れば私も同じなのだろう。  私は自分のものではないような重い体をゆっくり岸へ近づけていった。  私に気づいた道行く人が二人がかりで引き上げてくれた。彼らはそのまま去っていく。家に帰るのだろう。私もまずは帰らねば。そう思い、顔を上げて息を飲んだ。 「……ここは、どこ?」  川から見上げていたのはごく一部の景色でしかなかったことを思い知らされた。一面の焼け野原だった。残っている建物はほとんどない。すべてが黒焦げだった。  赤ん坊を抱いた母親がなにごとかを呟きながら通りすぎていく。みれば、赤ん坊は全身の皮膚が真っ赤にただれて男爵芋の皮のようにめくれている。  戦地から戻ってきた人だろうか「戦場よりひどい」と呟きながら焼けた材木をまたいでいく。  私も泥水をたっぷり吸い込んで重く真っ黒に変わり果てた防空頭巾をずるりと脱ぎ捨て、重い足を引きずるように歩き出す。  海の方に神奈川県庁、伊勢佐木町の方に野沢屋などの数少ない残っている建物を目印にして、我が家があると思われる方角へ向かう。  いくつもの焼けた材木を跨がなければ進めなかった。私はしばらくの間、それは焼け落ちた家屋の残骸か何かだと思っていたが、よくよく見れば人の形をしている。真っ黒に焼け焦げていてわからなかったのだ。  けれども、極度の疲労と恐怖のために頭の中がしびれたようにジンジンしていて特別な感情がなにも湧かないまま、根気強く左右の足を交互に前に出し続けた。

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