赤き月は巡りて
【第一章 赤き月】石舞台

 相変わらず頭は痛むが、市太は徐々に昨夜のことを思い出し始めた。  月読の祭が終われば、今年も嫁入りが増えるなどという話になったのだった。  岩木村の娘たちは十六の年の月読の祭が終わるまでは嫁に行けない。贄に選ばれているかもしれないからだ。贄は嫁入り前の生娘と決まっている。  お前も誰か貰う当てがあるのか、とからかい半分に聞かれた市太は浮き立った心で答えた。 「ゆきと一緒になるつもりだ」  刹那、場が静まり返ったのは気のせいだっただろうか。その後の記憶がない。気がつけばこの有様だ。  いったいおれが何をしたというのだ。このままでは月読の祭にも参加できないではないか。 「……まさか」  そうか。祭が終わるまでこうしておくつもりなのだ。おれが今年の贄を逃がさないように。  その考えは間違いないと思えた。きっと初めは単におれを男衆の仲間に入れるために呼んだのだろう。だが、ゆきを嫁に貰うと言ったものだから、慌てたに違いない。そして、用心のために無事に月読の祭が終わるまで、贄であるゆきにおれを近づかせないつもりなのだ。 「そうはいくものか」  なんとしても逃がしてやる。贄になどするものか。  辺りの石をざっと眺めて物色し、鋭く欠けた部分のある大きめの石に向かって芋虫のごとく這い寄る。さっそく手首の縄をこすりつけるが、後ろ手にされているため、なかなか思うような早さでは動かさせない。だが、ほかに方法も見つからない。  手首の皮がむけ、血の匂いが立ち上ってくる。掌をつたうのは汗なのか血なのか。左右に引っ張りながら縄をこすりつける。  次第に日が高くなってきた。焦りと疲れで縄をこする位置がずれ、自らの腕をきずつけてしまう回数が増える。歯を食いしばり呻きながらただひたすらに縄を切ることに専念する。  よってある細い一本が切れた感触があった。よし、いいぞ。こすり付ける力を更に強める。  ゆき、待っていろ。   ***  市太の声が聞こえた気がして、ゆきは顔を上げた。  しかし、目に映るのは木漏れ日が美しい山の木々だけだった。  身を清めるため、ゆきはひとり川を目指していた。いつもの水汲み場より上流に向かう。禊なのだから、暮らしに使う水と同じというわけにはいかない。  ゆきは白装束のまま川に入っていく。まだ凍えるほどではないが、時折ひやりと冷たい水が肌をなでていく。身が引き締まる。 「わたしは月読の贄」  声に出してみる。  一度覚悟を決めてしまうと心は静かだった。こんなに穏やかな気持ちになったのは初めてかもしれない。恐れや不安は石舞台にこの身が捧げられたときになって再びやってくるのではないかと思えた。今は村のために身を捧げる選ばれし者であるという誇らしさと満足感に包まれている。  それでも、やはり気にかかるのは市太のことだ。こんな大切な月読の祭の日に、どこへいってしまったのだろう。今宵が別れとなるのに。きちんとお別れをしたいのに。  市太……。   ***  ようやく縄を外せたのは、空が藍色に染まるころだった。山の中は既に闇が訪れている。鳥はねぐらに帰り、秋の虫たちが騒々しいまでに鳴いている。  自由になった両手を握ったり開いたりしてみる。どうにか動くようだ。手首は傷口が見えないほどに血が流れ続け、二本の手は深紅に染まっているが、闇の中ではそれすらもわからない。  市太は衣の裾を歯で裂くとできるだけきつく手首に巻いた。しびれて、感覚のないその手でどうにか足の縄を解く。  ここはどの辺りなのだろう。  日ごろ、山は必要のあるところしか足を踏み入れない。山の神の怒りに触れるわけにはいかないからだ。そんなことになろうものなら、岩木村のような小さな集落はたちまち消え失せてしまうことだろう。都などで崇められている神仏よりよほど恐ろしい。贄を捧げなければ鎮めておけないほどに。  夜の山は音が大きい。虫の声や木々のざわめきが山全体を震わせる。  その音に隠れるようにして、かすかに水の流れる音がする。川を辿っていけば水汲み場に出られる。そこまで行けば夜の闇の中でもどうにか村への道がわかるかもしれない。市太はその音だけをたよりに歩き始めた。   ***  山の中の石舞台。台座の様な平らな岩の上で、ゆきは白装束をまとって正座をしている。  震えが止まらないのは寒さのせいではないのだが、ゆきは掌に息を吹きかけるしかなかった。  目を閉じ、市太の姿を思い浮かべる。市太のやや高めの声を思い浮かべる。市太の骨ばった手を思い浮かべる。市太の……。  ゆき。  市太に呼ばれた気がして、はっと目を開ける。けれどもあるのは闇ばかり。それと松明と。  ふと見上げると、木々の枝が開けた部分から空が覗いている。  そして赤く大きな月。  そのとき、ぶわっと一迅の生ぬるい風が吹き、松明の炎を残らず消した。  ゆきは我が身の最期の時が訪れたのを知った。  市太、いつかまたどこかで。  風のあとには何もない石舞台だけが残った。   ***  ゆき。  市太は何度目かの遠のいた意識を取り戻した。  川を見つけ下っていっているが、歩みは遅々として進まず、どのくらい進んでいるのか見当もつかない。手首の傷は血を流し続け、巻いてある布から滴り落ちるほどである。意識は朦朧とし、足を前に運ぶのもおぼつかない。またしても崩れるように転倒する。  ゆき。  ごろりと仰向けになると、闇が迫りくる。空には赤く大きな月。一迅の強い風が木々の葉を激しく揺らしつつ、山の上から吹き降ろしてくる。  すまない、ゆき。ここまでだ。いつかまたどこかで。  風のあとには川に一筋の赤い流れがあるだけだった。

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