赤き月は巡りて
【第二章 空襲】終戦

 その年の夏、終戦を迎えても特に生活がすぐに変わるわけではなかった。  どうにか我が家があったらしき場所に焼け残ったトタンなどで小屋のようなものを建てて、ずっと父の帰りを待っていたが今日まで音沙汰がない。あの空襲の中、市役所の職員として市民の誘導を行いそのまま帰らぬ人となったのであろう。もちろん悲しいのだが、傷病兵として帰国させられて肩身の狭い思いをしていた父だったから、本人としては満足のいく最期だったのだと思いたい。  生活は変わらないと言ったが、むしろ食糧に関しては更にひどくなった。配給は一日にコッペパン一つということも珍しくない。次々とできた闇市に行けばそれなりに物は売っているが、高くて買うことなどとてもできない。けれども、空襲に怯える日々を考えれば贅沢は言っていられない。そもそも弱音を吐いている暇などないのだから。  ラジオで終戦放送が流れた八月十五日から一ヶ月ほどすると、横浜の中心部からうちの方までカマボコ兵舎が立ち並び、たくさんのアメリカ兵が見られるようになった。日本は占領されたんだと実感させられるが、出兵していた人たちが次々と帰ってくるのは、よそのうちのことでも嬉しかった。  同じように出兵から帰ってきた幼馴染みのところへの嫁入り話もあったが、のらりくらりとかわしているうちに、彼はあっさりと別の人をお嫁にもらった。  私はもうあの人への想いを忘れることはなかった。とはいえ、父を空襲で失って一人ぼっちになってしまった私は、なんでも自分でどうにかしていかなければならず、一日一日を生きていくことに精一杯で、あの人に会いに行くのは伸ばし伸ばしになっていた。  そんなある宵のこと。なんだか落ち着かない気分で外へ出て空を見上げると、真っ赤で大きな月が浮かんでいた。それはまるでなにもできずにいる私をあざ笑うかのようで、いつの間にか私は暗くなりかけた道を走り始めていた。  日野の辺りは、五月にあった大空襲の被害はなかったと聞いている。墓地と刑務所くらいしかないから爆弾を落としてもしかたないのだということらしいが、横浜の中心部の地獄絵図を思い出すとそんな話はとても信じられなかった。  しかし道を進むにつれ、家々が傷んでいるとはいえ、以前のままなのは夢の中のようだ。この辺りが空襲にあわなかったというのは本当だったのだ。  となると、義之さんは無事だということになるが、安心した途端に怒りがこみ上げてきた。なぜあの人の方から会いにこないのだろう。義男さんの手紙を渡したのだからうちの住所は知っているはずである。しかもあれだけの空襲の後で私がどうなったのか心配ではないのだろうか。まさかこの記憶が私の思い込みによるものなのか。  足は下駄の鼻緒がこすれて悲鳴を上げている。家の少ないこの辺りは闇が深い。赤い月はまだ嘲っているが、そろそろ私の体力も限界だと思ったころ、一度だけ訪れたことのあるあの門の前に来ていた。  気休め程度にしかならないが、服の砂埃を払い、髪をなでつける。  たしかにあの人は「思い出したら会いにきてくれるか」と聞いた。だから来たのだ。私の思い込みなんかじゃない。  呼吸を整え、玄関に向かおうとした時、赤ちゃんの激しい泣き声がした。思わず足を止める。 「どうしたの? ちょっとお外の空気でも吸いましょうか」  赤ちゃんをあやしながら出てきたのは、あの時おなかが大きかった女性だ。義男さんのお嫁さん。  こんな時間に玄関先にたたずむ人影に女性は「きゃっ」と小さく叫んだ。 「どうした?」  女性の声を聞きつけて家の中から声をかける人がいる。義男さんが帰国したのだろうか。  赤ちゃんはさっきまでの泣き方が嘘のようにすやすやと眠っている。暗闇に目が慣れた女性は私を見て「あ」と口を開けたが、声はでなかった。私が義男さんの手紙を届けたことを覚えているようだった。 「どうした? なんかあったか?」  下駄を突っかけて出てきたのは義之さんだった。義姉にかける声にしては砕けすぎている様子に、いやな予感がした。  義之さんは暗闇の中でもすぐに私を認め、心底驚いた顔をした。そしてその驚きは嬉しさからくるものではなく、困惑からくるものだと私にはわかってしまった。  言葉もなく見つめ合ったまま動かない私たちを見て、母子はそっと家の中に入っていた。 「……カヨさん、無事だったんだね」  久しぶりに聞く義之さんの声はなんの感情も込められていないように聞こえた。 「ええ。私はどうにか。父はいけませんでした」 「それは……」  声に動揺が現れ、私は少しだけほっとした。その小さなきっかけを活かすべく、せっかく来たのだからと勇気を出してみる。 「月があんまり赤かったから……」  空を見上げながら言うと、義之さんも月に目をやった。月はこれは見ものだとばかりに堂々と浮かんでいる。  義之さんははっとして私を見つめる。あの日の目だった。 「……思い出してくれたんだね」 「はい。すっかり。遅かったようですけど」  私は精一杯の皮肉を込めて言ってやった。義之さんの顔が苦しげに歪んだ。 「兄が、戦死した」  義男さんが戦死……。そのことは悲しむべき二つのことを意味する。ひとつは肉親を失ったということ。もうひとつは、弟が家を継ぐということ。 「あの子は男の子ですね」  木内のおうちに起こったことを義之さんの口から説明されるのが耐えられそうもない。この人の声で聞かされたくない。 「……よく聞く話です」  その一言で義之さんには私が理解したことが伝わった。  妻子がいる長男がなくなった場合、次男が家督と共に妻子も継ぐのは珍しいことではない。そうでもしないと、急激に人口が減った戦後の日本でお家を存続させるのは難しい。地主のような土地の有力者の家となればなおさらだ。個人の感情でお家断絶にするわけにはいくまい。  それは、以前私が市太と夫婦になる約束をしながらも、村の掟に逆らえなかったことと同じだった。きっとこういう因縁は巡るものなのだ。 「あの時、カヨさんが兄の手紙を持ってきてくれた時、言うべきだった」 「でもあの頃はまだ私はなにも気づいていなかったんです」 「それでもよかったんだ。市太とゆきではなく、義之とカヨでよかったんだ」  そのとおりだった。たしかにあの日、私は義之さんとの短い会話の間に魅力を感じていた。しかし、過ぎたことだ。  家の中から赤ちゃんがぐずる声がする。母親の子守唄がかすかに聞こえる。  いつまでもこうしているわけにもいかない。  再び出会えたことが奇跡だった。それを活かせなかったのは私たち二人のなにかが足りなかったのだろう。  私は溢れそうになる涙を必死にこらえ、義之さんをまっすぐ見つめた。 「いつかまたどこかで」  義之さんも想いのこもった目を私に向ける。 「うん、必ずいつかまたどこかで」  私は今できる限りの笑顔を見せると、くるりと振り向き足早に帰路に着いた。義之さんは送ろうとは言わなかった。言われても断っただろう。  赤く大きな月が照らしていてもなお暗い夜道を精一杯颯爽と歩いていく。  背中に愛しい人に見守られているのを感じながら。

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