赤き月は巡りて
【第一章 赤き月】白羽の矢

 まだ明けきらぬ薄闇の中、乾いた葉擦れの音がひんやりとした空気を震わせる。虫たちの声が重なり合う。  風を切るかすかなシュッという音がして、すぐにトンと何かに当たって止まった。  それを合図にしたかのように、東の空が白み始め、鳥たちが目を覚ます。黒一色だった村や山の風景が色を取り戻していく。  しかし村が目覚めるのにはまだ早い。   ***  あまりの寒さに市太は目を覚ました。  日が昇る寸前はぐんと冷える。近頃は富に朝晩の冷え込みが増してきた。 「どういうことだよ、これは」  寒いはずである。市太がいるのは山の中だった。しかも手足を縛られ転がされている。情けのつもりかむしろがかけてあるが、気休めにもならない。我が家のせんべい布団が恋しい。  市太は縄を解こうともがきつつ、ここにいるわけを考える。  昨夜は初めて男衆の集まりに呼ばれた。そこで酒を飲みながら翌日行われる月読つくよみの祭についての打ち合わせをしていたはずだ。  この集まりに参加できてこそ一人前の男として扱われる。漸く呼ばれるようになった市太は、舞い上がって強くもない酒を水のように呑んだのだった。それでそのまま眠ってしまったのだろう。肝心の祭について話し合った内容は、なにひとつ覚えていない。  それにしても、それが手足を縛られ山に転がされていることにはつながらない。いったいなにがあったのだろう。  頭の中で絶え間なく鐘を突かれているような痛みをこらえながら、ずるずると記憶の糸を手繰り寄せる。   *** 「矢がたったぞ!」  誰かの叫び声で村中の戸が慌ただしく開かれ、わらわらと人々が集まってくる。男たちは床から起き上がった姿のまま飛び出し、女たちも衣の前を合わせたり髪をなでつけたりしつつ出てくる。  村人のすべてが一軒の家の前に群がっている。軒には一本の白羽の矢がたっていた。贄を出す家のしるしだった。  月読つくよみにえ。  岩木村だけが続けている風習。とうにその風習に見切りをつけた近隣の村々では、このことを知っている者もすくないだろう。  中秋のころ月にお供えをして宴を催すのは、どの村でもよく見られることだ。月読の祭もそうした月見の宴のひとつである。しかしそれは一種独特のものであった。通常、供えるものといえはすすき、女郎花おみなえし桔梗ききょうのほか、団子や里芋、枝豆、柿、栗といったところだ。しかし月読の祭ではこれに贄が加わる。  贄は誰でも良いというわけではない。月読の掟というものがあり、それに沿って選ばれるのだ。  さだめはこの世に生を受けたときに与えられる。それは月のない晩に産まれた女児。月の出ない晩などよくある。だから月のない晩に産まれる女児もひとりではない。その中でもその年もっとも早く産まれた子が、贄となるさだめを背負うのだ。  さだめを負った者は、よわい十六で贄となる。ほとんどの場合、本人は知らされずにその日を迎える。伝えてはならないというきまりがあるわけではないが、なかなか宣告できるものではない。だから、幼い子供や同い年の子、あとはそれ以降に産まれた子は誰が贄になるか知らずにすごす。娘たちにとってそれは恐怖である。そして、十六前の娘を好いている男たちにとっても同じことだ。自分の思い人が贄だったら……と考えずにはいられない。  親子三人が我が家の軒に刺さった矢を呆然と見上げている。  両親は娘が生まれたときからこの日が来るのを知っていた。知っていて娘を育てなければならなかった。せめて情を持たずに済めばと思いながらも、むしろ人並み以上に愛しんでしまった。失われる月日の分まで。  娘は十六になったのだから今年の贄は自分かもしれぬと覚悟を決めていたつもりだった。しかし、こうして白羽の矢によって確かなものとされると、昨日までの自分は選ばれないと高をくくっていたのだと思い知らされるのだった。 「ゆき……」  娘を見つめる両親の目は既に涙がこぼれていた。  娘は奥歯がガチガチと音が鳴るほどに震えていた。もちろん明け方の寒さのせいばかりではない。ひんやりと冷たいものが胸の奥で渦巻いている。  覚悟を決めなくては。毎年誰かがやらなければならない務めなのだから。私が恐れや悲しみで嘆けば嘆くほど両親が苦しんでしまう。これは逃れられることではない。  ただ、あの人に会いたい。  娘は辺りを見渡して、月読の祭が終わったら夫婦めおとになると約束をした愛しい人を探したが、集まっている村人の中にその姿はなかった。  ゆきは口を一文字に結ぶと、真っ直ぐ白羽の矢を見上げ、凛とした声で言った。 「謹んでお受けいたします」

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