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 道場を出ると、いつの間にか空は濃い青色から重そうな灰色へと変わって低くなっていた。  兎月とげつ霧花きりかさんは、傘を持ち合わせていない。  激しい雨を予想して憂鬱な気分になる。  汗もかいたし、降られたらシャワーを浴びればいいと家路についた。  歩くたびに、湿った空気が二人の肌をベタベタと無神経に撫でていく。  兎月が霧花さんから柔術の稽古をつけてもらうのは、実に数ヶ月ぶりのことだ。  さすがにブランクはきつく、明日は筋肉痛になっているだろう。 「こうして兎月ちゃんと一緒に帰るのって久しぶりだねー」  義母がいつものように穏やかな笑顔と声で言葉を揺らした。  四十代であるのに、二十歳そこそこにしか見えない容姿も相変わらずだ。 「どうしてまた受け身や防御の型から始めなきゃならないんですか」  兎月は不満気だ。本当は攻撃の型を習いたいのである。 「ずは基本のおさらいからよ。受け身はとても大切なんだからー」  こと武術に関しては全幅の信頼を置ける人である。  霧花さんが言うなら、兎月はその通りにするしかない。 「兎月ちゃんなら筋が良いから、すぐに稽古の段階を上げていけるよー」  世辞ではなく、本心だった。  男性の剛と女性の柔を併せ持った独特の身のこなしは、兎月ならではのものである。  もしかしたら、柔よく剛を制す使い手になるかもしれない。  本人に伝えることはないが、親の欲目無しに教え甲斐のある生徒だと霧花さんは目を掛けている。 「お腹空いたね。今日の晩御飯は何かしらー」  結局、現子うつつこは「筋肉を付けたくない」という理由から、道場に通うことを拒んだ。  前みたいに三人で。という霧花さんの、ささやかな望みは叶わなかった。  今頃はキッチンを忙しく動いて、夕御飯の支度に精を出している頃だろう。 「きっと今夜も兎月ちゃんメニューだね」  兎月がしおりさんのところから帰って以降、現子はあからさまなほど兎月の好きなものばかり作っている。  気持ちは嬉しいが、あまり気をつかわれると兎月はかえって気兼ねをしてしまう。  自分の好きなものばかりがテーブルに並ぶのは、なんだか家族の食事らしくないと思った。  ――「嫌いなものも食べなくてはダメよ」  昔誰かに、そんなことを言われた気がする。  母かもしれない。おそらく母なのだろう。  そんな会話のやり取りが、食卓の上で交わされたりするのが家族らしい食事なのだという気がした。  そう思いながらも、兎月は家族らしい食事というものが何であるのかを知らない。否、覚えていない。  理屈ではない。何か漠然とした暖かいものの象徴。  兎月は勝手に家族というものを、そんなふうに捉えて納得していた。 「兎月ちゃん、あっちの空がスゴイよー」  霧花さんが足を止めて西の空を指差す。  鉛色の雲が低く垂れ込めた向こうは、激しい雨が降っているのかもしれない。 「きっと向こうはゲリラ豪雨ってやつだねー」  遠雷を聞きながら、なんだかはしゃいでいる。  兎月はどうしても霧花さんを母親という認識で見れないことを、申し訳なく思っていた。  敬語で接してしまうのも、そんな気持ちと無関係ではない。  外見から受ける印象の問題ではなく、歳相応だったとしても結果は同じだったろう。  もちろん実母に義理立てしているわけでもない。  現子を義妹として見ることが出来ないのと同じだ。  兎月と現子と霧花さんの間には、それぞれ微妙なバランスの距離感が存在する。  それは呼び方一つで崩れてしまうほどに、危ういもので頼りない。  他人ではないけれど、家族というには遠い存在。  兎月はそんな遠すぎず、近すぎない立ち位置が気に入っている。  だからどうしようもなく、霧花さんは「義母かあさん」ではなく「霧花さん」でなければならなかった。  この呼び方は、一生変わることはないだろう。  急に吹いてきた生暖かい風が、二人の間を無遠慮に抜けていった。  兎月も霧花さんも、何とはなしに風の行方を見送りながら少し黙る。  しばしの間が空く。  どちらからというわけでもなく、視線が交差する。  二人は再び歩き出した。 「静ちゃんの処はどうだった?」  すぐに霧花さんが兎月の横に並ぶ。 「少し料理をしたので現子の大変さが良く分かりました」 「そうじゃなくてぇー」  もどかしそうに両手を振る。  瞳には好奇の光が揺らめいては散っていた。 「霧花さんが期待しているようなことは、何もありませんでしたよ」  兎月が長くなってきた髪の毛をかきあげて言う。半端な色気がほのかに香った。 「そうなの?」 「そうです」  間髪無い肯定に、霧花さんは残念なような安心したような、微妙な表情を作ってから、やはり笑った。  事実二人の仲が進展したということは、特に無かった。無かったはずだ。  兎月はバイトして少し料理を覚えて、これといって何も無い日々は過ぎた。  ただ一つ、兎月は静さんについて分かったことがある。  正直なところ、兎月は静さんのことが苦手だった。  彼女の常軌を逸した想い入れが原因ではない。もっと、兎月自身の内面から湧き出る感情の問題だ。  彼女に対して、ずっと感じていた得体の知れ無い居心地の悪さ。  その思いはばくとして実像を伴わなかったが、この夏一緒に居た時間の分だけ正体が見えた気がする。  嫉妬だ。  兎月には精巣と卵巣の両方がある。  これは無性別というよりも、どちらの性別も有しているといったほうが、より本質に近い。  兎月の意識は男性的と女性的、その両面から構築され思考される。  その女性的な視点が、静さんに嫉妬を感じて心の水面に絶えず波影を作っていたのだ。  彼女はまるで球体間接人形のように、甘美で妖しく美しい。  女性として恵まれた容姿の持ち主だ。  殆どの女子は羨望と憧れから彼女に従うか、嫉妬して反目するか。そのどちらかになる。  兎月は後者だった。  一方で男性的な視点では、静さんを大人びた綺麗な女性として純粋に意識している。  加えて他の男子生徒に取るようなつんけん・・・・した態度と違って、自分にだけは笑顔を向けてくれるのだから嫌なわけがない。  それは麻薬のように危険で、都合が良すぎる暖かさだ。  安穏あんのんとした精神的怠惰たいだだ。  好意と嫌悪。愛しさと反感。男性と女性。  二つの相反する感情が、交わることなく兎月の中に居座り続ける。  この自己矛盾が、静さんと一緒にいるときの正体不明の重苦しさの大部分だった。  もしも兎月が女性だったら、静さんの良い友人になれたかもしれない。  そして男性だったなら、キチンと彼氏をしていたかもしれない。 「でも、ちょっと意外……」  霧花さんの声音こわねが影を帯びた。  気になった兎月が聞き返す。 「私は夏休み中に兎月ちゃんが帰ってくるとは思ってなかったから」  義母は言葉を紡いでいく。 「静ちゃんが兎月ちゃんを開放したのが意外……かな」  開放なんて大袈裟な表現だと思った。 「現子が元気ないって聞けば、心配で帰りますよ」 「うん。兎月ちゃんはね、分かるんだ。でも静ちゃんは違うでしょ?」  何か思うところがあるのか、一呼吸ほど間が空く。 「あのは自分のことしか考えていない」  霧花さんの顔から笑顔が消えたのを、兎月は初めて見た。 「だから心配なの」  一秒速で重さを増してゆく雲のかげに従うように、霧花さんの表情には不安の色が浮き出ている。    自宅の灯りが見えるところまで来ると、玄関の前で人影が動くのが見えた。  華奢な体に揺れる長い髪。兎月には見慣れたシルエットだ。 「静さん?」  静さんは兎月たちを見ると、軽く会釈をして挨拶した。 「どうしたの? こんな時間に」といっても、まだ六時を少し回った頃だ。 「静ちゃんもご飯食べてくー?」  静さんは白い首を左右に振る。  霧花さんはいつものように柔和な口調だったが、兎月にはどこか素っ気無く聞こえた。 「兎月ちゃんに用かなー?」  今度は小さく頷いてから、静さんが兎月の小指を掴んで引っ張る。  「此処を離れたい」という意思表示だった。  何時いつまで経っても指を離してくれそうにないので、兎月は仕方なく静さんに付いて行くことにする。 「晩御飯取っておくから早く帰ってくるのよー」  後ろから聞こえる笑みに向けて、兎月は自由なほうの手を振った。  バスの中で、そして歩きながらも彼女はずっと兎月の小指を握り締めたまま、無言で無表情だった。  静さんがシンプルな白のワンピースを着ているのは珍しい。  兎月の記憶の中に白を着た静さんの姿は無く、彼女の雰囲気がいつもと違うと感じるのは、だからなのかもしれない。  何度かメールが着信したが、静さんは携帯に触れることすらせずに、ただただ過ぎる家々の白色やオレンジ色の窓明かりを見ていた。  すえに着いたのは、静さんのマンションだった。  此処に来るまで、二人には一切の会話は無い。  静さんが口を開こうとしなかったからだ。  また、話しかける雰囲気でもなかった。  彼女がドアを開けて兎月を部屋へと招く。 「おかえり。兎月」  やっと口を利いた。  それに兎月は帰ってきたわけではないから、「おかえり」はおかしい。 「懐かしい?」と、静さんが兎月の背を押して部屋の中へと押し込んだ。 「まだ一日しか経っていないよ」少しばかり反応に困る。 「私たち大事なことを一度も話し合ったことがない気がするの」 「そうかもね」  静さんらしくないことを言うなと思った。 「だからお互い今夜は本音で話すの。嘘は無しで」  静さんはリビングのソファーに兎月を座らせると、自分も隣に腰を下ろす。  ソファーが少し軋んで音を立てた。
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