失敗した水彩画のように、頭の中がぼやけていた。 太陽はとうに空の上で、強い日差しを地上に降り注いでいる。 静さんはまだ覚束ない足取りで、兎月が使っていた部屋の扉を開ける。 折り畳まれた布団と、窓の外には白い入道雲が見えた。 兎月の姿は無い。 静さんは静寂の部屋で、畳まれた布団にうつ伏せに倒れた。 日向の匂いがつんと胸を刺す。 そして兎月が出て行ったことを実感するのだった。 取り敢えず、いつものようにコーヒーを淹れてからレコードを掛ける。 音楽鑑賞は静さんの唯一の趣味だ。 ビートルズの『レット・イット・ビー』。 これはもしかしたら世に出なかったかもしれないレコードなのだ。 メンバーの誰もがアルバムという形に仕上げようとしなかった。 曲も「終わり」を意識したものが、ぞんざいに並ぶ。 静さんは音楽に耳を傾けながら、再び独りになった余韻に頭の天辺まで浸るのだった。 独りだって悪いことばかりではない。良いこともあるばずだ。 例えば……。そう、例えば……。 コーヒーカップに一度口をつけて、テーブルへと戻す。 何もする気が起きなかったし、食欲も無かった。 どうして兎月は出て行ってしまったのか? そんなことを考えてみる。 彼は私と同じはずだった。 兎月は自分と同じく、家族なんて気にも留めない人種だと思っていた。 でも、どうやら違っていたらしい。 項垂れる。納得がいかない。どうしようもない。どうして……。 曲の途中でレコードの針を上げた。 静さんが兎月を初めて見たのは高一の冬だ。 その日は一際寒い雪の日だったので、よく覚えている。 否、雪だろうと槍だろうと空模様に関係なく、忘れることは出来ない鮮明な記憶。 入学はしたものの、静さんは学園生活という退屈な日常に辟易していた。 授業にもクラスメイトにも興味が持てず、いっそ辞めてしまおうかとも考えていた。 そんな矢先の二学期の終わり。 誰もいない放課後の冷たい廊下を歩きながら、かじかんだ手に息を吐いていると、人の気配に顔を上げた。 廊下の向こう側から、静さんのほうへと歩いてくる人影があった。 制服から男子だと分かる。 しかし相手と距離が縮むにつけ、静さんは目の前の生徒がなんだかよく分からなくなってしまった。 不可解という意味で、内心引っ掛かるものがあったのだ。 今も尚、降りしきる雪のように白い肌。そのくせ唇だけは鮮血のように赤い。 何より印象的なのは、男とも女とも判別がつかないことだった。 男子の制服を着ているから男子に見えたのであって、女子の制服を着ていたら女子に見えただろう。 その生徒はまるで性別が無いかのように存在があやふやで、よろめいている。 その絶望的なまでの頼りない曖昧さを、美しいと感じた。 「白い……天使がいる」擦れ違いざまに見惚れた。 二、三歩歩いて足を止める。 逡巡の末に振り向くと、そこにはもう冬の静寂が音も無く存在するだけ。 薄闇の中に、どれくらい佇んでいただろうか。 自分は白昼夢でも見ていたのだろうかと思った。 雪の降る音だけが、廊下に影となって形無く降り積もっていった。 再び天使に会ったのは二年に進級して、記憶の残像も薄れかけた頃だった。 新しい教室で集団から外れたように、隅の席で本に視線を落している。 クラスに溶け込めないのではない。溶け込まないのだ。 常識から外れた存在なのだから、それでいい。 天使は群れてはいけない。天使は孤独でなければならない。 そうやって、ずっと孤独の檻の中で過ごすのが相応しい。 それでも天使は寂しくない。 ――だって、ずっと私が見ているのだから。 そんな想いを込めながら、窓辺の生徒に向ける静さんの視線は桜のように優しい。 そして静かな興奮が自分の中に湧き上がるのを自覚する。 学校へ通う目的を手に入れたと思った。 天使の観察。もう退屈な日々を送らなくてもいいのだ。 サラサラで柔らかい髪。優しい眉毛。鳶色の瞳はツリ目気味のせいで、眼差しは少し鋭い。 良く通った細い鼻筋。長い睫。形の良い輪郭。 色白なのは色素が薄いからだろうか。しかし、唇だけは鮮やかに赤い。 そして特定されない性別。 何もかもが出会った頃のままだ。 天使の名は兎月というらしかった。もっとも、名前に興味は無い。 静さんにとって重要なのは、存在の意味だ。 孤独な佇まい。こわれもののような弱さ。雪の影のような頼りない存在感。 水のように無色透明で変幻自在。 そのすべてに安心を感じた。 彼(彼女?)は誰が生きようが知ったことなく、誰の死にも心が揺れない。 純粋で残酷、綺麗で儚く、悲しい生き物なのだ。 野々宮 兎月は、私に似ている。 静さんは理由無い直感で、偏執的にそう思い込んだ。 学校を辞めずに良かったと思った。 その喜びは、しかし長くは続かなかった。 休み時間に他のクラスからやってきたらしい女子が、兎月から教科書を借りていった。 そのとき見せた兎月の笑顔は、静さんの精神に容赦ない闇を落とした。 ただの知り合いか。友達か。彼女か。そんなことは問題ではない。 静さんの中の天使は、笑顔とは無縁のはずだった。否、無縁でなければならなかった。 天使が天使であるための、崇高な孤独が消えてゆく。 静さんは悲観した。天使が天使でなくなってゆく恐れを感じた。 斯くして不安は現実となる。 兎月は、なんということない体でクラスに埋没していた。 普通じゃないくせに、普通を気取っていた。 感情の起伏など無いくせに人並みに感情があるフリをしたり、他人に興味なんて無いくせに在るようなフリをする。 彼の孤独が一つ、また一つと剥がれてゆく。天使の檻が壊れてゆく。 兎月の中の天使を護るための茨が必要だった。 しかし、どうすれば天使を彼の中に留めておけるのだろうか。 静さんは悩み考える。そして、意外なほど早く答えに行き着いた。 ――自分が柵になろう。 自分が傍に寄り添い、兎月から抜けてゆく天使性を繋ぎ止めればよい。 だって自分と兎月は似ているのだから出来るはずだ。 野々宮 兎月に崇高なる孤独を取り戻させるのだ。 彼を再び天使に戻すのだ。 それが出来るのは自分だけだと思った。 そうして静さんは、兎月を屋上へと呼び出したのだ。 今、兎月は自らの天使性を失いつつある。 野々宮 現子やバイトのプログレ女のせいで、孤独の崇高さを見失いつつある。 兎月を本来あるべき姿に戻す必要がある。 それが出来るのは自分だけではなかったか。 静さんは虚無感に抗いながら顔を上げた。 漆黒の瞳には狂気の波が揺れている。 柵は柵の役目を果たさなければならない。 彼女の頭の中で、パチパチと何かが弾けて飛んだ。
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