エイプリルフールズ・コミュニケーション
第48話「心に茨を持つ少女」
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 失敗した水彩画のように、頭の中がぼやけていた。  太陽はとうに空の上で、強い日差しを地上に降り注いでいる。  しおりさんはまだ覚束おぼつかない足取りで、兎月とげつが使っていた部屋の扉を開ける。  折り畳まれた布団と、窓の外には白い入道雲が見えた。  兎月の姿は無い。  静さんは静寂の部屋で、畳まれた布団にうつ伏せに倒れた。  日向の匂いがつんと胸を刺す。  そして兎月が出て行ったことを実感するのだった。  取りえず、いつものようにコーヒーを淹れてからレコードを掛ける。  音楽鑑賞は静さんの唯一の趣味だ。  ビートルズの『レット・イット・ビー』。  これはもしかしたら世に出なかったかもしれないレコードなのだ。  メンバーの誰もがアルバムという形に仕上げようとしなかった。  曲も「終わり」を意識したものが、ぞんざいに並ぶ。  静さんは音楽に耳を傾けながら、再び独りになった余韻に頭の天辺てっぺんまで浸るのだった。  独りだって悪いことばかりではない。良いこともあるばずだ。  例えば……。そう、例えば……。  コーヒーカップに一度口をつけて、テーブルへと戻す。  何もする気が起きなかったし、食欲も無かった。  どうして兎月は出て行ってしまったのか?  そんなことを考えてみる。  彼は私と同じはずだった。  兎月は自分と同じく、家族なんて気にも留めない人種だと思っていた。  でも、どうやら違っていたらしい。  項垂うなだれる。納得がいかない。どうしようもない。どうして……。  曲の途中でレコードの針を上げた。  静さんが兎月を初めて見たのは高一の冬だ。  その日は一際寒い雪の日だったので、よく覚えている。  いや、雪だろうと槍だろうと空模様に関係なく、忘れることは出来ない鮮明な記憶。  入学はしたものの、静さんは学園生活という退屈な日常に辟易へきえきしていた。  授業にもクラスメイトにも興味が持てず、いっそ辞めてしまおうかとも考えていた。  そんな矢先の二学期の終わり。  誰もいない放課後の冷たい廊下を歩きながら、かじかんだ手に息を吐いていると、人の気配に顔を上げた。  廊下の向こう側から、静さんのほうへと歩いてくる人影があった。  制服から男子だと分かる。  しかし相手と距離が縮むにつけ、静さんは目の前の生徒がなんだかよく分からなくなってしまった。  不可解という意味で、内心引っ掛かるものがあったのだ。  今もなお、降りしきる雪のように白い肌。そのくせ唇だけは鮮血のように赤い。  何より印象的なのは、男とも女とも判別がつかないことだった。  男子の制服を着ているから男子に見えたのであって、女子の制服を着ていたら女子に見えただろう。  その生徒はまるで性別が無いかのように存在があやふやで、よろめいている。  その絶望的なまでの頼りない曖昧さを、美しいと感じた。 「白い……天使がいる」擦れ違いざまに見惚れた。  二、三歩歩いて足を止める。  逡巡しゅんじゅんの末に振り向くと、そこにはもう冬の静寂が音も無く存在するだけ。  薄闇の中に、どれくらい佇んでいただろうか。  自分は白昼夢でも見ていたのだろうかと思った。  雪の降る音だけが、廊下に影となって形無く降り積もっていった。  再び天使に会ったのは二年に進級して、記憶の残像も薄れかけた頃だった。  新しい教室で集団から外れたように、隅の席で本に視線を落している。  クラスに溶け込めないのではない。溶け込まないのだ。  常識から外れた存在なのだから、それでいい。  天使は群れてはいけない。天使は孤独でなければならない。  そうやって、ずっと孤独の檻の中で過ごすのが相応しい。  それでも天使は寂しくない。  ――だって、ずっと私が見ているのだから。    そんな想いを込めながら、窓辺の生徒に向ける静さんの視線は桜のように優しい。  そして静かな興奮が自分の中に湧き上がるのを自覚する。  学校へ通う目的を手に入れたと思った。  天使の観察。もう退屈な日々を送らなくてもいいのだ。  サラサラで柔らかい髪。優しい眉毛。鳶色とびいろの瞳はツリ目気味のせいで、眼差しは少し鋭い。  良く通った細い鼻筋。長いまつげ。形の良い輪郭りんかく。  色白なのは色素が薄いからだろうか。しかし、唇だけは鮮やかに赤い。  そして特定されない性別。  何もかもが出会った頃のままだ。  天使の名は兎月というらしかった。もっとも、名前に興味は無い。  静さんにとって重要なのは、存在の意味だ。  孤独な佇まい。こわれもののような弱さ。雪の影のような頼りない存在感。  水のように無色透明で変幻自在。  そのすべてに安心を感じた。  彼(彼女?)は誰が生きようが知ったことなく、誰の死にも心が揺れない。  純粋で残酷、綺麗で儚く、悲しい生き物なのだ。  野々宮 兎月は、私に似ている。  静さんは理由無い直感で、偏執的へんしつてきにそう思い込んだ。  学校を辞めずに良かったと思った。  その喜びは、しかし長くは続かなかった。  休み時間に他のクラスからやってきたらしい女子が、兎月から教科書を借りていった。  そのとき見せた兎月の笑顔は、静さんの精神に容赦ない闇を落とした。  ただの知り合いか。友達か。彼女か。そんなことは問題ではない。  静さんの中の天使は、笑顔とは無縁のはずだった。否、無縁でなければならなかった。  天使が天使であるための、崇高な孤独が消えてゆく。  静さんは悲観した。天使が天使でなくなってゆく恐れを感じた。  くして不安は現実となる。  兎月は、なんということないていでクラスに埋没していた。  普通じゃないくせに、普通を気取っていた。  感情の起伏など無いくせに人並みに感情があるフリをしたり、他人に興味なんて無いくせに在るようなフリをする。  彼の孤独が一つ、また一つと剥がれてゆく。天使の檻が壊れてゆく。  兎月の中の天使を護るためのいばらが必要だった。  しかし、どうすれば天使を彼の中に留めておけるのだろうか。  静さんは悩み考える。そして、意外なほど早く答えに行き着いた。  ――自分がしがらみになろう。  自分が傍に寄り添い、兎月から抜けてゆく天使性を繋ぎ止めればよい。  だって自分と兎月は似ているのだから出来るはずだ。  野々宮 兎月に崇高なる孤独を取り戻させるのだ。  彼を再び天使に戻すのだ。  それが出来るのは自分だけだと思った。  そうして静さんは、兎月を屋上へと呼び出したのだ。  今、兎月は自らの天使性を失いつつある。  野々宮 現子うつつこやバイトのプログレ女のせいで、孤独の崇高さを見失いつつある。  兎月を本来あるべき姿に戻す必要がある。  それが出来るのは自分だけではなかったか。  静さんは虚無感にあらがいながら顔を上げた。  漆黒の瞳には狂気の波が揺れている。  柵は柵の役目を果たさなければならない。  彼女の頭の中で、パチパチと何かが弾けて飛んだ。
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