エイプリルフールズ・コミュニケーション
第54話「ムーン・チャイルド」

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 僕の左手には傷痕が残った。  良く見なければ分からないほどの、薄い線を見るたびに思い出す。  あの夜、瑪瑙めのう 晴彦はるひこしおりさんの部屋に来なければ、自分はもしかしたら最終的には刺されていたのではないか。  静さんは晴彦という邪魔が入ってくるまで、ナイフを手放さずに持っていた。  それは、これからまだナイフそれが必要だったから。  静さんの「殺す」は、現子うつつこの「殺す」とは違う「殺す」で、きっとそれは言葉通りの『殺す』なのだ。  すぐにではなく、時間をかけてゆっくりと僕の死をいつくしむ。  静さんにはそんな一面がある気がする。  今さら確かめようもないけれど、それならそれでも別に良かった。  現子も霧花きりかさんも悲しむだろうけれど。  静さんは犯罪者になってしまうけれど。  死んでしまえば、僕は無だ。 「野々宮くん!」  合歓川ねむかわ ひつじの声に気づいて、兎月とげつは適当な返事をした。  同時に耳に入ってきた教室の喧騒が、兎月を薄っぺらな思考から現実へと引き剥がしてゆく。  夏休みが終わり、今日は二学期の始業式だ。  何度も呼び掛けたことを、ひつじは不満そうに強調する。 「これ、借りてた宿題。ありがとう」  ノートやプリントの類が入ったトートバッグを手渡される。 「宿題、合歓川に貸したっけ?」 「やっぱり聞いてなかった」  ひつじの声音が少し尖る。  「くじらが借りてたヤツ」 「くじら?」 「ほら、あそこ」  ひつじが差し示す先には、見覚えのある小柄な少女が他の女生徒達と何やら楽しげに盛り上がっている。 「ああ……」  合点がいって兎月はバッグを受け取った。 「私と猫ちゃんもお世話になったからって言ったじゃん」  拗ねるひつじに、兎月は愛想笑いで誤魔化す。  兎月はくじらが合歓川の知り合いだから宿題を貸したわけではなかった。  そもそも、くじらが誰かなんて忘れていた。本人がクラスメイトだと言うから貸したに過ぎない。  その程度のことだった。 「役に立ったのなら、良かった」  素っ気無い返事。取って付けたような表情。 「野々宮くん、字が綺麗だね」  突然褒められて困惑する。 「別に普通だと思うけど」 「そんなことない。私なんかよりも全然綺麗で、その……」  ひつじは夜須女やすめ しおりが何処からか険悪な瞳で此方こちらを睨んでいるのではないかと、気が気でなかった。  夏祭りで貴路きろとやらかした記憶は、まだ生々しく脳裏に焼きついている。 「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。今日は静さん、来ないと思うから」  態度からひつじの懸念けねんを見透かして、兎月は話題から外れたことを言った。 「具合でも悪いの?」  聞いて安心する。やはり、ひつじは彼女がどうしても苦手だ。 「多分、ただのサボリだよ」  ――他の誰とも話さないで。  静さんが口にしそうな言葉が、彼女の無機質な声で脳内再生される。 「そういえば、猫間ねこま 貴路さんもいないね。彼女もサボリかな?」  兎月が貴路だけフルネームで呼んだことに、ひつじは妙な引っ掛かりを覚えたが違和感はすぐに消えた。 「猫ちゃん? 今朝会ったよ」 「アイツは、たまに居なくなるんだ」  くじらが二人の会話に入ってくる。いつの間にか近くに居たらしい。 「なんだか本当に猫みたいだね」  楽しそうに微笑む兎月を見て、ひつじとくじらは驚いた。  事実、稀有けうなことであった。  ぎこちない愛想笑いではない。  学校でもバイト先でも、本当に笑ったことなど滅多に無いのだ。 「好きなヤツんとこじゃねーの? ワケありって言ってたし」  ひつじがくじらの頭を叩いた。  ピシャリという音が、教室の喧騒の中に吸い込まれていく。 「なんでもないから、野々宮くん」  くじらは個人のプライバシーというものを、考えなしに言ってしまうことがある。  ひつじはくじらの悪癖が出るたびに、頭を叩く癖がついてしまった。 「大丈夫だよ。僕は合歓川しか友達いないから。話す相手なんて本当に――」 「なら私も友達になってやるぜ。野々宮は宿題貸してくれたからな」  ひつじに叩かれるのは日常茶飯事なのか、くじらは気にもしていない様子だ。  安い友情に、今度は本当の愛想笑いが浮かぶ。  ――永遠に友達も作らずに、ずっと一人でいてくれたら私は兎月と別れることが出来る。  静さんの声が頭の中に居座って、どんなに拭っても拭っても出て行ってくれない。       始業式が始まる頃、静さんはまだベッドの中にいた。  もとより、登校する気など欠片カケラも無い。  雷雨の夜以来、ろくに食事も取らずに横になっている。  要するに不貞寝ふてねしているのだ。 「君が他の生徒よりも一日余計に休みを貰っているとは知らなかったな」  寝室では瑪瑙 晴彦がロッキンチェアーに腰掛けて、静さんに話しかけていた。  本人は嫌味を言っている自覚は無く、ジョークだと思っている。  そういう男だ。 「兎月くんはもう此処ここに来ることはないと思うよ?」 「どうせ兄さんが余計なことを喋ったんでしょう」  ベッドの中でイライラと晴彦を非難する。 「まぁ、そうなんだけど」  晴彦は眼鏡のブリッジに指を当てながら、優しげな目を意地悪く歪ませてわらった。  静さんは晴彦に背を向けたまま唇を噛む。  一体何を話したのかは知れないが、ろくでもないことに決まっている。 「もう帰って!」 「あれから大変だったんだぜ? 兎月くんの家族、妹さんかな? 取り乱しちゃって」  野々宮 現子。兎月の義妹。思い出したくもない顔が、静さんの瞳の奥にチラつく。 「転校でもする?」 「冗談じゃないわ!」 「でも行きづらいでしょ? 学校」 「兄さんに私の気持ちなんて分からないわよ!」  晴彦はここまで感情を表に出した静さんを見るのは初めてだった。  それだけに兎月という少年を遠ざけなければならない状況になってしまったのは残念だ。  もしかしたら、彼女の心を開く鍵と成り得たかもしれない。 「一つ確認しておきたい」  晴彦の声が低くこもった。 「もしかしてあの夜、君は兎月くんを殺すつもりだったんじゃないのか?」  静さんは肯定も否定もしない。  後ろを向いたまま黙っている。  晴彦はその沈黙を肯定と捉えて哀れんだ。 「また来る」と言い残して晴彦が部屋から去ると、現実感も消えた。  静さんの寝室はベッドと椅子とサイドテーブルだけの、やはり生活感薄いものだった。  簡素な白で統一された部屋は、どこか病室を想起させなくもない。  窓の外は今日も昨日と同じく、夏の影が色濃く灼きついている。  静さんにとって、夏は白のイメージだ。  強い陽光の白ではなく、夏風に揺れるカーテンの白でも、涼を求める白でもない。  単純に病室の白だった。  彼女が瑪瑙の家で、精神を病んで入院したのが夏だったのだ。  だから必然として、白は彼女にとって無垢な色にはなりえない。  病んだイメージを象徴する色になった。  しかし、同時に落ち着く色でもあった。  病室は、彼女が瑪瑙の家から開放された場所でもあったからだ。  静さんの右手の傷は、もうあとさえ残っていない。  人は自らに刃を立てるとき、無意識の手加減が働く。  兎月の傷はどうだろうか。  自分は兎月の体と心にあとを残すことが出来ただろうか。  それはまるで、月に足跡を残すように。  そんなことをベッドの中で考えながら、そんな夢を見ようと目を閉じた。

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