静さんは特に用事が無ければ、昼近くまで寝ている。 そもそも彼女は用事や約束とは無縁の人なので、夏休みは大抵昼までベッドの中だ。 これは兎月と暮らしているときも変わらなかった。 彼女の夏休みは、低血圧と音楽とカフェインの怠惰な空気の流れだった。 今日も残暑が厳しい。 フランスパンとブラックコーヒーの食生活に戻り、静さんの部屋からは再び生活感が消えた。 兎月が出て行ってから一日しか経っていないのに、もう何日も過ぎた気がする。 自分の部屋と外では、時間の流れに差異があるのではないか。 そんなしようもないことを考えながら、静さんはまだ熱の残るコーヒーカップに口をつけた。 太陽が西へと傾いて、風が涼みを纏い始めたら兎月に会いに行こう。 静さんは薄い笑みを表情に乗せて、少し震えた。 兎月が自分のことを好きでなくても何の問題もないのだ。 どうせ兎月は自分を含めて誰も好きにはならない。 だから、それは寂しさや切なさといった感情に直結しない。 寧ろ、そうでなくてはならないという必然にも似た思いが、確信となって彼女を縛った。 兎月は誰も好きにならなくて良い。 孤独こそが兎月の居場所であり、墓碑銘なのだ。 「珍しいね。君が笑うなんて」 よく響く声のほうへ振り向いたとき、もう静さんは無表情だった。 目の前の小奇麗な身なりをした青年を見て、表情に多少の険が篭もる。 「相変わらず古い音楽を聴いているね」 青年はチャーリー・パーカーを知らなかったが、スピーカーから流れる音がどうしようもなく年代を白状していた。 「何しに来たの。兄さん……」 昔と何も変わらない静さんの不機嫌そうな様子に、青年は苦笑する。 「君が男と同棲してるって伯父貴殿から聞いたもんで、尊顔を拝しに……ね」 つまりは物見遊山だ。否、物見遊山のついでといったところか。 青年は静さんの従兄弟で、名は瑪瑙 晴彦といった。 長い髪を後ろで結って、高い鼻には眼鏡が乗っている。 静さんと同じに、眉毛のところでパッツンと切り揃えている前髪が印象的だ。 二十代前半にしては、態度も容姿も少し子供っぽい。 「残念ながら、今は留守よ」 静さんは晴彦の顔を見ようともしない。素っ気無い態度はそのまま声になって出た。 「留守とか言って、じつは愛想尽かされた後だったりして」 静さんのキツイ視線を受けながら、晴彦は屈託の無い笑みを浮かべている。 「君の愛は重いからね」と、楽しそうに付け足すが、本人に悪気は無い。 そういう男だ。 「ちゃんと飯食ってる?」 テーブルの上の、端が欠けたバゲットを見ながら晴彦が聞いた。 静さんは無言でレコードプレーヤーの針を上げる。 もう音楽という感じではなくなってしまった。 晴彦は勝手に冷蔵庫を開けると、いくつかある食材を見て口笛を吹いた。 「君の彼氏は料理をするんだね。うん、きっと良い奴なんだ」 静さんが包丁も扱えないのは、晴彦には承知のことだ。 「良い奴って兄さん、何も知らないくせに」 「じゃあ、悪い奴かもしれん。気をつけろ」 静さんは呆れた。この従兄弟の言動は、いつだっていい加減なのだ。 分かってはいても、疲れる。 「コーヒーは出ないの?」 「そんな気分じゃないの」 テーブルの上には、静さんが飲み残したコーヒーがカップに残って、寂しげにある。 それに、この部屋は喫茶店ではなかった。 「じゃあコレを頂こう」 晴彦は静さんの飲み残しを、喉を鳴らして一気に飲んだ。 余程、喉が渇いていたのだろう。 「僕がたまに此処に来るのはね、君のことが心配だからだよ」 「そう……」 「これは本当に本当の本心だ」 静さんは晴彦の言葉を適当に流しながら、一冊の雑誌を開いて見せた。 「兄さん、コレ作れる?」 「チキンとアボカドのパングラタン?」 ページに記載されているレシピの料理名を、疑問符付きで読み上げる。 「でも君はベジタリアンじゃなかったっけ?」 晴彦はそう記憶していた。 「だからチキン無しで作って。材料は冷蔵庫に揃っていると思うから」 そうして晴彦は料理に取り掛かるのだった。 晴彦は月イチくらいのペースで、静さんの処に顔を出す。 親類縁者には漏れなく無関心な静さんであるが、晴彦のことは嫌いじゃなかった。 だからといって好きというわけでもなかったが、それでもこれはとても珍しい特異なことであった。 静さんはトースターから焦げ目も美味しそうに焼きあがったグラタンを見た。 次に晴彦の眼鏡の奥で悪戯気に揺れている瞳を見る。 「どうぞ召し上がれ」と、晴彦は手振りで示す。 息を吹きかけて充分に冷ましてから、静さんは最初の一口を噛み締める。 咀嚼して飲み込んでから、眉根を寄せて少しだけ考える仕草を見せた。 二口目を食べた後も、同じように眉根を寄せてからスプーンを置く。 「美味しくないわ。兄さん」 グラタン皿を晴彦のほうへと押し付ける。 「ふむ……」と、興味なさそうにグラタンを一瞥してから、晴彦も一口食べた。 「うん。不味いね」 声にはしみじみとした実感が篭っていた。 「兄さん、ちゃんとレシピ通りに作ってくれたの?」 「作ってないよ。本来なら鶏もも肉とか入れるんだから」 晴彦にとって静さんは妹のように特別であったから、我侭だって聞いてやりたくなってしまう。 「でも兎月が作ったのは美味しかったのに……」 静さんは晴彦の作ったグラタンを、怪訝そうに見て言った。 「トゲツ? 彼氏の名前かい?」 静さんが頷く。グラタンの熱さとは無関係のところで頬が上気する。 「その変わった名前の彼氏が肉を抜いて作っていたのなら、味は同じはずだけどね」 火や調味料の加減で、多少は味の差が出るかもしれない。 けれど晴彦は料理が得意なほうで、彼氏よりは美味しく出来たという自負がある。 「でも兎月のグラタンはもっと――」 「分かってるよ。確かに彼氏は秘密の隠し味を使っている」 晴彦の言葉に静さんは首を捻った。 「愛……という名の隠し味をね」 場の空気が冷ややかな重みを持って変わっていく。 静さんが今日、初めて従兄弟の目を真っ直ぐに見た。 深く深く鋭い漆黒の瞳。 「兄さん……」 「なんだい?」 「もう帰って」 静さんの声には無感情の中にも絶対的な拒絶が含まれていて、異様な迫力がある。 大人でも、たじろいでしまうかもしれない。 「ところで君の彼氏はどんな奴なんだい?」 晴彦は何事も無かったように話題を変えた。平然としている。 彼には静さんの氷のような無愛想は昔からで、もう慣れっこだ。 静さんも晴彦が素直に帰るなんて思っていないから、怒る気も失くす。 「天使……みたいな人?」 自分で言っておきながら首を傾げる。 「それほどの美少年なら、一度会ってみたいね」 それは外見ではなく内面を指しての言葉かもしれないのだが、静さんはそのどちらも形容していた。 初めて兎月を見た薄暗い冬の廊下が、泡沫のように彼女の脳裏に浮かんで弾ける。 「兄さん、天使って本当は人の姿なんかしていないのよ。正式な書物には、どれもバケモノみたいな姿で描かれているんだから」 「悪魔と大差ないわ」と、静さんは嬉しそうに微笑みながらグラタンをゴミ箱へ捨てた。
コメントはまだありません