エイプリルフールズ・コミュニケーション
第33話「カンタベリー・ジャム」

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 バイトが終わって帰ろうとしている兎月とげつを、ひつじが呼び止めた。  よく晴れた夏の、暑い午後のことだ。 「野々宮ののみやくん、これ貸してあげるから聴いてみて」  ひつじが一枚のCDを差し出す。 「マッチングモウル……」  ジャケットには二匹のモグラのイラストがコミカルなタッチで描かれている。 「あ、やっぱり知ってた?」  なにやら確信めいた反応をされる。 「名前だけで聴いたことはないんだけど……」  それは事実だったが、思わず焦る。  合歓川ねむかわ ひつじはプログレの話になると興奮してテンションが一気に上がるプログレッシャーだ。  本当は知識だけで実際にはロックを殆ど聴いたことがない兎月としては、話していると何だか騙しているようで申し訳ない気分になってくる。  いや、紛れもなく騙しているのだ。 「じゃあ貸してあげる」 「でも……大事なCDなんじゃ……」  兎月には遠慮したい理由がある。  半端ないロックの知識を持っていながら、実はロックを聴いたことがない。  そんなこと信じてもらえるわけがないし、バカにしていると怒る人だっているだろう。  バイト先でのトラブルは避けたいから、兎月はなるべくならひつじと距離を置きたいのだ。  あくまでも同じバイトをしているただのクラスメイト。それ以上でも以下でもありたくない。 「イントロからメロトロン・フルートで始まるの。それ以降もメロトロンが鳴りまくるから」  昨日、カンタベリーはよく知らないなんて失言したのは迂闊だったと今更ながら後悔する。  そんな用語を出したら、ひつじが乗ってこないわけがないのだ。  そもそも、初日にひつじの話題に調子を合わせてしまった兎月が悪い。 「カンタベリーの魅力、分かると思うよ」  ひつじの大きな瞳が、面白い悪戯を考え出した子供のように揺れる。 「じゃあ、借りるね。ありがとう」  カンタベリー・ミュージックは、英国南部のカンタベリーという街で結成されたソフトマシーンというバンド人脈から派生した。  中にはカンタベリーとは無縁のバンドもあったりして、明確なラインの無い曖昧な呼称だ。  彼らが奏でる音は柔らかいメロディーが主題の、ゆったりとした聴き心地が大きな特徴の一つである。  マイナーなジャンルの音楽ファンは、自分の好きな音楽を他者に薦めたがる傾向がある。  おそらくは、それがひつじの動機だった。  兎月がバイトから帰ってシャワーを浴び終えると、しおりさんが帰っていた。 「おかえり」  静さんが炎天下の昼日中に外出なんて珍しいことだ。 「三つ編み似合ってるね……涼しげで」  挨拶にも、お世辞にも反応しない。  さっきから何か言いたそうにチラチラと兎月のほうを見てくるが、決して視線を合わせようとはしない。  兎月も最近は少しずつ静さんのことが分かってきたようで、これは不機嫌なときに見せる行動の一つなのだ。  下手に構っても逆効果なので放っておく。  出かけ先で何か嫌なことでもあったのだろうかと考えていると、いきなり立ち上がってコーヒー豆を挽きだした。  ゴリゴリと豆を挽く音が止む頃に、兎月はひつじから借りたCDのことを思い出した。  キッチンでコーヒーを淹れている静さんに断ってから、CDプレイヤーで借りたCDをかけてみる。  切なくも優しいメロディーが流れてきて兎月は一瞬思考が止まり、思わずオーディオのほうを向いてしまった。  フルートに似てフルートにあらず。  生音とは違って、どこか霞がかったような音色。  この「似て非ず」がメロトロンから出る音なのだと理解する。 「素敵な曲ね……」  いつの間にか静さんが二人分のアイスコーヒーを持って隣にいた。  兎月の手を優しく握ってくる。  確かにムードのある曲かもしれない。  今度は頭を兎月の肩に預けてきた。  その重過ぎない存在感に兎月は理由の無い危機感を覚える。  兎月と静さんは、彼氏彼女の関係だ。  お互いが認め合って付き合っている。  この程度は当たり前のスキンシップの範囲内だろう。  それなのに、心が蝕まれていくような居心地の悪さを感じてしまうのは何故なのか。  自分の心に生まれる拒絶の正体が未だに掴めず、戸惑いを覚える。  きっと音楽のせいだと思った。  そう思うことで正体不明の不安から逃げた。  この雰囲気のある流れを止めたいが、音楽は止めなく流れ続ける。  曲間の無はプログレのアルバムにはよくあることだ。  そして突然の変拍子で曲調が変化することも。  ジャズっぽい即興演奏のようになったタイミングを利用して、兎月は静さんの華奢な両肩を掴むと笑顔で押し戻した。 「そろそろ夕御飯の支度をしなくちゃ」  キッチンへ向かう兎月を静さんは拗ねたような表情で見送る。 「ヘタレ……」  呟きは曲に流されて、兎月に辿り着くことはなかった。  フランスパンとカマンベールチーズ、それとコーンスープが今夜の夕食である。他には水しか無い。  ブールをスライスしたのは静さんで、兎月は冷たいコーンスープを作った。  コーン缶を使ったお手軽なスープは、冷たく甘みのあるなめらかなものに仕上がって意外とイケた。  とはいえ、質素な食事である。  静さんが肉全般がダメなので、どうしても野菜や乳製品が主体のメニューになってしまう。  しかも、パンに合うものという制約まで付く。  それにしても、もう少し何とかしたいと思う兎月だった。  現子うつつこから簡単に作れる野菜料理でも教えてもらおうか考える。 「バイトのほうはどんな感じ?」  静さんの声には、いつもと違う不自然な抑揚があった。  嬉々としているけれど怒っているような。笑顔だけれど内心は不機嫌そうな。  兎月がさっき自分を避けたことが気に入らないのだ。  それからバイト先の女子のことを黙っていることも。 「静さん、合歓川ねむかわ ひつじって知ってる?」 「誰?」と、首を傾げる。 「バイト先で知り合ったんだけど、同じクラスの女子らしいんだ」  兎月の脳裏に、嬉しそうに音楽の話をするひつじの笑顔が浮かぶ。 「そのがどうかしたの?」 「友達になった」 「へ、へぇー」  大きな瞳と太めの眉。肩の上で揺れるショートヘア。  兎月の前で嬉しそうに話す感情豊かな少女。  静さんの中で、バイト先で見た女と名前が一致する。 「トモダチ……になってどうしようというの?」  夜の部屋の灯りの下で、静さんの表情がだんだんと険しくなっていく。 「別に何も。友達といっても少し話す程度だし」  それは多分友達とは言わない。ただのバイト仲間だ。 「でも、静さんには話しておいたほうがいいかなって……」  切り分けられたチーズを薄切りのパンにはさむ。  グニャリとした感触に少し嫌悪がこぼれた。 「そう。でも私としては……バイト自体を辞めて欲しいのだけど」  静さんの漆黒の瞳が、兎月を探るように覗いてくる。 「それは聞けない」 「まぁ。そう言うと思ったけど」  諦めたように、ため息を一つこぼす。  バイト先の女のことを兎月が自ら話してくれたことで、取り敢えず機嫌は直ったようだ。  スープを一匙ひとさじすくって口へと運ぶと、「あら、美味しい」と言葉が漏れる。 「さっきのCD、なかなか良かったわね。サイケっぽい雰囲気もあって」 「静さんはプログレ好き?」  カンタベリーミュージックがプログレかどうかは置くとして、プログレ好きに支持者が多いのは確かだ。 「私はプログレ聴くならジャズを聴くけど、さっき兎月が聴いていたのは好きよ」  パンを千切りながら、「また聴こうよ」と笑顔を向ける。 「あのCD、合歓川のお勧めなんだけど……」  笑顔を作り損ねたような微妙な表情で答える。 「どうりで趣味の悪いアルバムだと思ったわ」  瞬間冷凍したように静さんから笑顔が消えて、凛とした無表情が戻ってくる。  もっとも静さんは本来、無表情がデフォなのだ。 「合歓川も60年代後半とか70年代前半あたりの音楽が好きみたいだから、静さんと気が合うかも――」 「合わないと思うわ」  二人は冷めた視線を交わしあった。 「やっぱり?」 「うん……ごめんね」 「べつに謝ることではないけどさ……」  兎月は静さんに友達が出来ればいいなと思っている。そうすれば、自分に対する偏執的な好意が和らぐかもしれない。  しかし、取り巻く世界は兎月の思うようには回らないのだった。  齧ったパンが少し苦い。

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