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 浅い眠りの中で、深海魚の夢を見ている。  深海魚になって、現子うつつこは自由に海流の影を漂う。  海の底には沈んだ船の昔話や、恐竜たちの墓がある。  そうして拡がっていく想像の余地を泳ぐのは楽しい。  何処かで誰かが自分を呼んでいる気がして虚空を振り向くと、上も下も無いあやふや・・・・。  そんな気がしただけだ。  ――誰も何も、私に触って欲しくない。  タメ息は大きな泡になって波に溶けた。 「でも、骨の無い子はどうなるんだろう?」  確か昔からの素朴な疑問だったはずだ。 「海月くらげだって化石になるよ」  聞き覚えのある声は、しかし誰のものであるのか思い出せない。  その日は眠りにつくまで口を利いてやらなかった気がする。  ――だって、あなたが分かってくれなかったから、私はとても寂しかった。  人の気配が現子を微睡まどろみから引き上げた。  まぶたの裏の、明るい射し込みに目を細める。 「おはよう。ただいま……」  聞き覚えのある声がした。性別に捕らわれていない懐かしい声。 「……兎月とげつ?」  まだ深海魚のままの現子には現実感が伴わず、意識が胡乱うろんなままだ。  「深海魚だって化石になるんだよ」  目の前の兎月が頷く。 「あのときは無視してごめんね。ワザと口を利かなかったの」  兎月が現子の頭を優しく二度、叩いた。 「寝ぼけているんだね」  どうして兎月が自分の部屋にいるのかよく分からない。  昼前の気だるい夏の空気に肌を撫でられながら、ゆっくりと覚醒してゆく。  まだ重い瞼を擦りながら、だんだんと思い出してゆく。  麻酔が切れるように、四肢の痺れが消えてゆく。  大きな欠伸あくびを一つ作ってから、現子は超特急で現実に帰ってきた。  此処は兎月の部屋だ。自分はベッドでいつの間にか眠ってしまっていたのだ。  寝顔を見られたとか、そんな場合ではない。  兎月の留守に、部屋へ無断で入って好き勝手しているのがバレてしまった。 「現子……」 「うぁい!」  現子は急速に心が硬くなっていくのを感じる。返事さえマトモに出来ない。  いつの日かやってくるはずの今日を、どこかで待っていたはずだ。  それなのに、その今はこんなにも心をきしませている。  後悔。そして畏怖いふ。他にも得体の知れない感情がいくつも生まれて、意識に降り積もっていく。  心も化石になるのだ。 「いろいろと気をつかわせてしまったみたいだね」 「うぇ?」 「僕が留守の間、部屋の換気とかしてくれていたんだろう?」  確かに窓は開いているが、もしかしたら兎月はバカなのかもしれないと思った。  ――バカというより鈍いのか? どうなのか。 「そうだよ。布団干したりとかもしてあげてたんだから」  感謝してよね。と、ベッドの上で得意気に言う。  嘘が透けて見えてしまわないように、タオルケットの中に全身を包み隠して丸くなった。 「でも……どうして兎月が此処に居るの?」 「ついさっき帰ってきたんだよ。泣くほど喜んでくれるとは思わなかったけど」 「嬉しくって泣いているわけじゃない。っていうか、泣いてないし!」  自分でも知らずに涙目になっていたらしい。 「事前に連絡入れろって話ですよ!」  しかし霧花きりかさんは不在。現子は惰眠をむさぼっていたのだから、連絡はつかなかっただろう。 「いきなり帰って来ても、お昼とか何も用意してないよ」 「もう済ませちゃったの?」  まだ正午前だ。  兎月としては昼食に間に合うように帰宅したつもりだったのだが、一足か二足遅かったらしい。 「食欲無いから食べてないの」  小さな声だった。布団の中だから余計にこもる。  兎月には現子が少し痩せたように見えた。 「それじゃあ、今日のお昼は僕が作るよ」  布団の中で現子は耳を疑った。  兎月の言葉をぼんやりと反芻はんすうしていると、義兄は階段を駆け下りて行った。  のそのそとベッドから降りると、現子もその後を追う。  現子が階段を下りると、兎月が冷蔵庫を開けているところだった。  ここ最近、現子は買い出しに行っていないから、食材と呼べる物は殆ど入っていないはずなのだ。  現子が兎月の後ろから冷蔵庫のドアをそっと閉める。 「電気代もったいない……」  恥ずかしかった。  自分が何だか日々の当たり前をおろそかにしているようで、羞恥しゅうちを感じた。  現子がこの家に来てから、冷蔵庫の中身がこんな虚しい状況になったのは初めてだ。 「なんだか元気ないね」  兎月が心配そうに現子の顔を覗く。  事実、元気は無かった。  それは兎月のせいかもしれないし、夜須女やすめ しおりのせいかもしれないし、進んでいない夏休みの宿題のせいかもしれない。  そして何よりも野々宮 現子という人間の本質は、落ち込みやすいのだった。  霧花さんが兎月のバイト先を訪ねた本当の理由は、現子の体調を心配してのことだったのかもしれない。  兎月が冷蔵庫からアボカド二個と玉葱、豆乳とパルメザンチーズを見つけた。  それとテーブルの上のフランスパンを手に取る。 「何をするの?」  キッチンを忙しく動き回る兎月に、現子が不安そうに疑問を投げる。  台所に立つ兎月なんて、今までに見たことがなかった。  返事無く、兎月はさいの目に切った玉葱をフライパンで炒めている。  急に暑さを感じて現子はエアコンを付けた。  料理を作る兎月を前に、キッチンテーブルで座って待つというのは奇妙な気分だった。  本来見慣れた光景の逆だ。 「もう戻らないの?」  兎月は料理に集中しているのだろうか。またしても返事は無い。  それでも、もう夜須女 静のところへは戻らないのだろうという気がした。  なんとなくという絶対的確信。  兎月がやっと帰ってきたのだ。  ばくとした不安のようなものが、解けて流れて消えてゆく。  なんだかとても安心した気分。  やはり家族は一緒に居るべきだ。  それがたとえ――。  しばらくして、アボカドとフランスパンのグラタンが出来上がった。  匂いは良い。食欲を刺激する匂いだ。  兎月は二人分のグラタンをテーブルに運ぶと、現子に勧める。 「熱いから気をつけて」  二人は「いただきます」と手を合わせてからスプーンを持った。 「食欲無ければ無理しなくてもいいんだよ。食べられるだけで」  兎月の口調がいちいち優しい。  現子はそれほど悄然しょうぜんとしている自覚は無かったから、申し訳ない気分になる。  でも兎月に心配されるのは悪い心地ではなかった。  現子は二口ほど無言でグラタンを口に入れてから、「あんまり美味しくない」と呟いた。  兎月は苦笑した。実は作った本人も美味しいとは思っていないのだ。  とりわけ美味しくもないが、食べられないほど不味いわけでもない。  取りえずは腹が膨れればいいというような料理ものだ。  レシピを頭の中に丸暗記したからといって、美味しいものが作れるわけではない。  ルールを知っているからといって、いきなりテニスがプレイ出来ないのと一緒で、「身に付く」というのは頭の中だけではどうにもならない部分である。  それでも食べやすいし栄養もあるので、取り敢えずは元気が出るかと作ってみたのだった。 「静さんは美味しいって言ってくれたんだけどね」 「はぁー、そうですか」  少し間の抜けたやり取りになった。  そして夜須女ならそう言うだろうなと確信する。  彼女は兎月を愛しすぎている。それはもう狂気の領域だ。  女は男を愛しすぎるとバケモノになる。  これは現子の主観だ。  いつの間にかその領域に近づき過ぎている自分に、自己嫌悪を感じて落ち込んでいたのだ。  夜須女 静はその領域に躊躇ちゅうちょもせずに入り込んで、恍惚こうこつの表情でわらう。  そんな彼女が羨ましくもあり、美しくもあり、怖くもあった。 「夜須女とは最近どうよ?」 「どうって?」 「仲良くやってるの?」  兎月のスプーンを持つ手が止まる。 「現子って僕のことが好きなんだよね?」 「はぁ?」  兎月が突拍子も無いことを言った。現子の質問の答えになっていない。 「誰に聞いたんだっけかな」覚えていない。 「べつに好きじゃないわよ」 「そうなの?」 「そうなの!」  ムキになって強めに否定してしまう。 「じゃあ、誰か好きな人とかいないの?」 「いないわ」 「それじゃ参考にならないなぁ」  兎月は現子には意味が分からないことを言ってくることがよくある。  当たり前だが本人の中では意味が通っているらしく、途中で自己完結して話が一方的に終わってしまう。  今も一人納得したように頷いている。 「あらー。いい匂いー」  ぱたぱたと霧花さんが外出先から帰ってきた。  兎月は未だに霧花さんが何を生業なりわいにしているのか知らない。 「兎月ちゃん、お帰りー」 「ただいま、霧花さん」  霧花さんは兎月の思慮に感謝した。 「現子ちゃん、食欲出たのねー」 「心配掛けてごめんね、母さん……」  憑き物が落ちたような現子を見て、霧花さんは安心したように優しい目を細めた。  親子間の確執か、家族の擦れ違いか、兎月の居ない間に何やらあったのかもしれない。  それは兎月にも関わりがあることは間違いないのだ。  季節はずれのグラタンは熱を残したまま、なかなか冷めてくれない。  間を持て余す。  残暑が厳しい。

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