エイプリルフールズ・コミュニケーション
第21話「静かな嵐とかみあわない」

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 関東に梅雨明け宣言が出されて三日ほど経っていた。  期末試験の成績上位者の名前が、学校の廊下に張り出された日。  野々宮ののみや 現子うつつこは学校で死んだ魚のような目をして過ごしたという。    現子はスーパーで買い物をしてから帰る。  それでも兎月とげつよりも遅く帰宅するのは珍しい。 「お帰り」 「兎月、もう帰ってたの? 今日は早いのね」  様子が少し変だ。無理して装う平然は、ぎこちなく現実を滑っている。  原因がしおりさんにあるのは間違いない。 「霧花きりかさんは帰り遅くなるって言ってたから、出前でも――」 「どうして? ちゃんと作るよ。今夜は牛フィレ肉のいいのがあったから、豪勢にステーキ……だよっ!」  食事の用意をするのもしんどいのではないかと気を遣ったつもりだった。  カラ元気はむなしくカラ回って、二人の間が噛み合わない。 「……現子、大丈夫?」 「何が?」 「試験の結果見たんだろう?」  現子の持っていた茄子が落ちる。茄子は不吉な音を立てて床を転がった。  夜須女やすめ しおりは見事に学年一位を取ってしまったのだから。 「兎月、どうしよう」 「だから罠だって言ったでしょ」 「だってウチの学校、そこそこ進学校でレベル高いほうなのにいきなり一位とか取れるもの?」 「静さんは今まで手を抜いていたんじゃないかな。何故かは分からないけど、いつだって一位を取れる自信はあったんだと思う」  そうでなければ、初めからあんな話を振ってくるわけがない。  もっとも点差は僅差だったから、静さんにしても絶対というわけでは無かったのだろう。  いずれにせよ計画的だったことは間違いない。 「罠じゃん!」 「だからそう言ったのに、アッサリ挑発にのっちゃうんだから」  現子らしいといえば、現子らしい。 「夜須女あの女は性格悪いから無理難題を言っ――」  現子の目の前が突然真っ暗になる。  お先真っ暗という比喩ではなく、後ろから人の掌で両目を覆われているのだ。  その手はひんやりと冷たい。 「私は誰でしょう……」  聞き覚えのある声が背後で囁く。 「夜須女 静!」 「惜しい。正解は性格の悪い夜須女 静さんでした」  動揺する現子に無表情でブイサインを作ってみせる。 「ど、どうして夜須女アンタがここに」 「願いごと――」  現子がビクリと反応する。 「――を伝えるには、早いほうがいいと思って」  兎月についてきて現子を脅かすために隠れていたのだ。 「静さん、現子を虐めるのはそのくらいにしてあげてよ」  こんなやり取りも含めて、兎月から見ると二人は決して仲が悪いようには見えない。 「イヤね。私、別に虐めているわけではないのよ……」  とにかく話は夕食の後でということになった。  牛フィレ肉のステーキと、そら豆のスープ。  焼き茄子とオクラのお浸し。  それとパン・ド・カンパーニュが普段よりも多めにスライスされてバスケットに入っている。  テーブルの上に載った料理を、静さんは不思議そうに見つめていた。  兎月は生活感の無い静さんの部屋を思い出していた。  三人は同時に両手を合わせて「いただきます」を言う。 「もしかして静さんはベジタリアン?」 「そういうわけではないけど……」  肉料理を遠慮した静さんに兎月が聞いた。 「私、なんだか肉が怖いの」  カンパーニュを千切りながら、よく分からないことを言う。  そら豆のスープをスプーンで掬って口に運ぶ。  静さんはスープをマジマジと見てから、また口に入れた。 「おいしい?」 「…………」  静さんが照れくさそうに俯いて、小さく頷く。そんな彼女に現子は満足そうに微笑んだ。  静さんが現子の作った料理を口に入れたのは、これが最初である。 「おかわり、あるよ」 「ありがと……」  不思議と兎月の目には、静さんが現子よりも幼く映った。  料理は偉大だ。 「この家を出て私と一緒に暮らさない?」  兎月と現子は一瞬、静さんが何を言っているのかよく分からなかった。  それが彼女の「お願いごと」であるのだと理解したのは、二呼吸ほど間を置いてのことである。 「だってさ、現子」兎月が他人事のように言う。 「……無理だね。私の料理(スープだけ)を気に入ってくれたのは嬉しいけど、諦めてください」  現子には兎月(あと霧花さん)に、ご飯を作るという使命感がある。  でも、お弁当くらいなら作ってあげても良いかもしれないと思う。  二人分も三人分も、手間はたいして変わらない。 「兎月に言っているのだけど……」  一瞬キッチンが静まり返った。静さんだけが笑顔らしきものを浮かべている。 「もっとダメだわ! 何考えているのよ。このスケベ女は!」  現子が語気を荒げるのも無理はない。静さんの言っていることは同棲だ。  静さんが無茶を言うのは今に始まったことではないけれど、そんなことは許されるわけがなかった。 「妹さんには聞いていないのだけれど……」  帰る場所は無味乾燥な部屋。 「ただいま」も「おかえり」も「いただきます」もない空間。  兎月に独り暮らしの経験は無いけれど、分かる気がした。 「私と兎月は付き合っているのだから、不自然でもないでしょ?」 「また夜須女はそんなこと言って。妄言も大概にしないと――」 「本当よ。ね?」  淡白な表情で兎月に念を押す。 「今ここで言う?」 「放っておくと、兎月はいつまでたっても言わないでしょ?」  その通りだった。 「何?」  現子が首を捻る。 「僕と静さんは、付き合っているんだよ」  嘘のような関係だけれど、そういうことになっている。 「あ……いつから?」 「六月の中頃辺りから」  まだ半月程度というべきか。もう半月もというべきか。 「そうなんだ……そうだったんだ。それならそうと、早く言ってくれればいいのに。……やっぱり兎月って変……だわ」  現子の意思に反して声が震える。 「そうだ。私、部屋の片付けしなきゃだった」  頼りない足取りで自分の部屋へと向かう。涙を見られたくない。 「現子?」  静さんが兎月を引き止める。 「兎月って鈍感。妹さんは兎月のことが好きだったのよ」  嘘ではないと思った。  静さんはこういう冗談は言わない。  静さんのそういうところを、兎月は信頼している。 「いつから好きだったのかな……」 「多分、最初から」 「…………静さん」 「うん?」 「さっきの話。返事を少し待ってもらえるかな」  頭の中でいろいろと整理する必要があると思った。 「そうね。私、今日はもう帰るわ」  静さんは静かに立ち上がると、兎月の隣から去った。  野々宮ののみや 霧花きりかが自宅の玄関をくぐったのは、もう日付も変わろうという時間だった。  ほろ酔い気分でダイニングまで辿り着くと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取る。  ペットボトル越しに、冷たい水の硬い刺激が掌に伝わってきて心地良い。  人の影を目の端に捉えて、コップに注ぐ水の流れが止まる。 「現子ちゃん。まだ起きてたのー?」  相変わらずの柔らかい声が、ぬるい空気に伸びて届く。 「お母さん、私振られちゃったみたい」  赤い目の下には涙の跡が続いている。  霧花さんは椅子に座るとミネラルウォーターに口を付けた。 「静ちゃん?」  肯定しながら現子も椅子を引く。 「だからお母さん言ったでしょー。早く告っちゃいなさいってー」 「そんなこと、今更言ったってさ……」 「静ちゃん美人だから気後きおくれしちゃった?」 「そんなことないけど」  あったかもしれないと思う。  いつか嵐のように、兎月をさらっていく者が現れるかもしれないと思っていた。  兎月と夜須女 静が初めて会った日、彼女が嵐かもしれないと思った。 「でもねー。現子ちゃんの強みは兎月ちゃんの傍にずっといられるってことだよー」  椅子の上で膝を抱えている娘の頭を優しく撫でる。 「男女間の関係なんて一年後にはどうなっているか分からないしー。ソースは私ー」  ともあれ、一つの結果が出たことは間違いない。  またここから進めばいい。  霧花さんは見守るような温かい眼差まなざしを現子に送った。 「それに静ちゃんは多分、兎月ちゃんのことが好きってわけでもないかもだしー」 「どういうこと?」 「女のカンってヤツー?」 「お母さん、酔ってるのね……」 「酔ってるよー。今はツライかもだけどー、自分の悲劇に酔ったらダメだよー」  霧花さんはもう一度、娘の頭を撫でてから「頑張れー」と言って灯りを消した。

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