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 猫間ねこま 貴路きろは、夏休みが早く終わってしまえばいいと思っていた。  彼女が一番会いたい人は、最早もはや二学期の学校で待っている。  制服を着た自分が誰にも気持ちを知られることなく、相手にさえ気づかれることなく、自然に会える場所。  そこが貴路の望む居場所だった。  まだ蝉の鳴く声も煩い残暑の厳しい昼下がり。  合歓川ねむかわ ひつじと筒宇野つつうの くじらは、猫間家の玄関をくぐった。  遊ぶためではない。夏休みの宿題の件で集まったのだ。  貴路が高校に入学してから建て替えた家には、まだ新鮮な木の香りが残っている。  そして通された部屋は整理整頓され機能性を追及した、あまり少女していない貴路らしい空間だった。  三人とも少女らしい趣味には、それほど持ち合わせが無い。  気が合う理由は、そんなところにも潜んでいるのかもしれない。  二人の友人を前に貴路は熱弁をふるう。 「さて、我々女子高生がお気楽でいられる夏休みも、すでに一週間と無いわけだが……」  首から提げたプラスチック製の黄色いメガフォンが、薄い胸の辺りで揺れている。  といってもソレを使うつもりはないようで、なんとなく雰囲気として用いているらしい。 「二学期が始まる前に、当然片付けておかなければならない問題がある」  ひつじが神妙な顔で頷く。 「そう、夏休みの宿題だ」  いつもならこういう場面では決まって茶々を入れるくじらが、珍しく大人しい。  貴路は演説さながらに言葉を張り上げ続ける。 「自慢じゃないが、私は高二の夏休みを遊び倒した。遊んで遊んで遊びまくった。なぜなら来年の夏休みは受験で、それどころではなくなるだろうからだ」  ここで一呼吸、間を置く。線の細い髪が、オカッパをなぞるようにサララと揺れた。 「だから当然、宿題には一切手をつけていない」  貴路は意味ありげにくじらのほうを見た。  らしくなく、借りてきた猫のように大人しく正座している。言葉は続く。 「ただし、自分の担当教科だけはシッカリと完遂したが……ね!」  フォックスレンズの眼鏡越しに、貴路はもう一度何か言いたげな視線をくじらへと向けた。  少年のような溌剌はつらつとした顔には、嫌な汗が浮いている。エアコンが効いていないわけではない。 「もちろん、私たちの中に宿題を忘れてきたなどという友情と信頼への背徳者はいるわけがないと固く信じて、今日この日の挨拶に代えさせていただく。諸君、ご清聴ありがとう」  貴路はようやく落ち着いて、冷たい緑茶に口を付けた。 「猫ちゃんカッコイイ。どこかの作者みたい」  ひつじがささやかな拍手で労をねぎらう。 「独裁者……」  ひぐらしのように儚いくじらの独り言は、しかし羽を持って貴路の耳に残った。 「教科は民主的に阿弥陀あみだクジで決めただろうが」 「果たしてそれは本当に民主的ですかな?」  異を唱えながらも、くじらは貴路と視線が合わないように気をつけている。  縮こまった体は、いつもより一層小さく見えた。 「あ、そうそう……」  如何いかにもワザとらしい仕草で、貴路が一つの小箱を部屋用の簡易テーブルの上に置く。 「えー、これってもしかしてゴディバのチョコレート?」  ひつじの声に花が咲いた。 「トリュフだ。貰い物だが今日のために取っておいた」  箱を開けると一口サイズのチョコが九つの美味しさの形を取ってそこにある。 「宿題終了の前祝いに皆で食べよう」  そして愛すべき二学期の始まりに。 「いただきます!」  箱の中の一つを口に入れると、ひつじの中に上品で芳醇な甘みが溢れて溶けた。 「うむ。これは良いものだ」  貴路もささやかな贅沢を味わう。 「ん? くじらは要らないのか? 美味しいぞーお」  嫌な笑みを浮かべる。  くじらは、そろそろと貴路の顔色を窺ってみた。  笑顔でチョコを勧めているが、眼鏡の奥の瞳は笑っていない。  これは、割り当てられた宿題をやってきた者だけが口にすることを許されたご褒美なのだから。 「どうしたんだ。遠慮なんてガラにも無い。いつもなら真っ先に飛びつく口が」 「ううう。ゴ、ゴチんなります……」  くじらが甘露かんろの玉手箱に手を伸ばすと―― 「物理……」  貴路の言葉でトリュフがくじらの指から滑り落ちる。 「は、くじらの担当だったよな」 「さ、さ、さん、三秒ルール……」  四秒たってから震える指で拾い上げたチョコが、やっと小さな口の中へと入った。 「美味いか?」 「う、ウマイです」  せっかくの甘味も分かっていないふうである。モゴモゴと動く口の中は、味気がなさそうだ。 「なんてなぁ。ごめん、ごめん」  貴路が笑いながら背中を叩いて、くじらはせた。 「オマエが宿題をやって来ないであろうことは、最初からお見通しだ」 「落ち着いて食べなよ。くじらっち」  くじらは疑問符をそのまま表情に出してみせる。 「オマエの分は、ひつじと私とで全部終わらせてあるから安心しろ」 「なんで?」  愚問だった。 「どうせやって来てないだろ?」  くじらがおもむろにバッグの中からノートとプリントを取り出す。 「化学と物理、やってきたけど」  貴路とひつじが間の抜けた顔を見合わせる。 「オマエなぁ、ただ解答欄を埋めれば良いわけじゃないんだぞ?」  答えがすべて間違っているのでは意味がないのだ。 「待って猫ちゃん!」  ひつじの驚嘆に呼び止められて振り向く。 「なんだか合っているっぽい……よ?」  貴路が慌ててくじらのノートをめくる。  綺麗とは言えない字でビッシリと書き込まれた解答は、すべて正解を導き出していた。 「オマエ……」  ドヤ顔でトリュフを頬張っているくじらの狭い肩幅を掴む。 「さては教師に体を売ったな! 犯罪を犯してまで犯されたいか!」  果たして何を言っているのか、貴路自身にもよく分かっていない。  それだけ信じられない光景を見てしまった。 「猫ちゃん、落ち着いて! くじらっちの貧相な体なんて需要があるわけないよ!」  混乱の中、自分に言い聞かせるようにひつじが言う。 「そ、それもそうだ。じゃあ何でちゃんとやって来てあるんだ?」  貴路の視線がくじらを問い詰める。 「自分でやった」 「嘘付けー!」  くじらはテストがあるたびにクラス内での成績は最下位なのだ。  もちろん、彼女はそんな瑣末さまつなことは気にもしない。  いつも楽しそうに小さな体を走らせている。  健康で元気なら、どんな時と場所でも生きていけるのだ。  そんなふうに笑うくじらを、貴路は眩しくて直視できないときがある。 「しょうがねぇ。手品の種を明かしてやるぜ」  幼さの残る顔を一笑してから、二人を見据える。  足の組み方が、いつの間にか正座から胡座あぐらへと変わっていた。 「実は他人の宿題を丸写ししたのさ! ノートに何が書かれているのか私にゃサッパリ分からん!」  クセのある短い髪に手を置いて、くじらは大雑把に笑った。 「まぁ、そんなところだよな」 「分かってた。うん、分かってたね」 「その通りなんだけど、結構失礼だな君たちは」  二人のリアクションの薄さに、くじらは不満そうに口を尖らせる。 「丸写しとはいえ、やってきてあるんなら最初から堂々としてりゃいいだろが」  何故に意味深な怪しい態度を取ったのか。 「二人の驚いた顔が見たくってなー」  貴路とひつじ、くじらでお互いが相手を脅かそうと企んでいたのだ。  ダメッ動物トリオは、なんだかんだで仲の良い三人組である。  仕切りなおして宿題に向かう。  貴路が古文と英語の課題を取り出す。 「あれ? 猫ちゃん、英語は私の担当だよ?」  ひつじがテーブルに載ったプリントを、戸惑った様子で見た。 「いや、私の担当は古文と英語だろ?」 「私が歴史と英語で、猫ちゃんは古文と数学」  黙って考え込んでいる貴路に、ひつじが阿弥陀クジを見せる。  水掛け論が起こったときのために、取っておいたのだ。  意外とひつじには抜かりの無いところがある。 「ほうほう、確かに。数学は猫っちが担当だったんだねぇ」  くじらが他人事のような所作で、貴路の肩に手を置く。 「友情と信頼への背徳者……か」 「待て。私はワザと間違えたわけではないし」 「確かに間違いは誰にでもある。が、君の間違い一つで私とひつじは呉越同舟ごえつどうしゅう、絶望への船出だねぇ」 「それをいうなら一蓮托生いちれんたくしょうだ」  呉越同舟は仲の悪いもの同士が協力することだから、くじらの使い方は間違っている。  もしかしたら皮肉を込めて使ったのかもしれないが、くじらに限ってその可能性は少ない。  どちらにしても、くじらが呉越同舟なんて言葉を使ったのは貴路にとって意外であった。 「すまない! 二人とも」  貴路が頭を下げた。 「私の凡ミスで大変なことに!」  宿題を写す作業にだって時間は掛かる。今から数学の課題を片付ける余裕は無いだろう。 「頭を上げてよ。猫ちゃんだけのせいじゃないよ」 「ひつじ、残念ながらこれは猫っちのせいだ。そして私たちは、揃って二学期に恥をかくのだ」 「それじゃあ、三人で堂々と恥をかこうよ!」  三人の関係において、貴路がミスをすることは珍しい。  もしかしたら、初めてのことかもしれない。  くじらは立場が逆転した今の状況を、面白おかしく楽しんでいた。 「チッチッチ! 諦めたらそこで試合終了だよ?」 「くじらっちには何か名案があるの?」  そんな口ぶりだ。くじらだけ余裕で落ち着き払っているのも妙である。  切り札らしきものの存在を匂わせていた。 「ほら、これで問題解決だぜい!」  数学の課題をバッグから取り出すと、得意気な表情でテーブルに置く。 「私はすでに全ての宿題を終えている」  何処かの伝承者のようなことを言う。 「さぁ、顔をあげるのだ猫っち。何も怖がることはない……」 「くじら……おまえってヤツは」  貴路が首から提げたメガフォンで、くじらの頭を叩いた。 「宿題全部終わっているなら最初から言えよ! 勿体つけた演技しやがって」  最初から最強の手札を揃えて此処に居たのかと思うと、どやしつけたくもなる。くじらのおかげで助かったことは事実なのだが。 「で、オマエに宿題を貸した神は何処どこの誰なんだ?」 「あー、野々宮 兎月とげつ」  一瞬で場の空気が静まり返った。  好意、不審、親切と、三人でそれぞれ印象がまったく異なる固有名詞。 「野々宮 兎月……」  貴路の中で、花火の一夜ひとよが甦る。  泡沫うたかたの花の下で、自分の体のことを唐突に語った真性半陰陽しんせいはんいんようのクラスメイト。  彼が口にした内容は、殆ど面識の無い人間に話すにはあまりにも非常識だった。  野々宮 兎月は信用の置けない人物という認識が、貴路にはある。 「オマエ、野々宮 兎月と仲良かったのか?」  くじらに問う。その声音は緊張を孕んでいた。 「夏祭りに会っただけだけど?」  たったそれだけの関係で宿題を借りてしまう厚かましさ。 「私はオマエが時々本当にスゴイ奴なんじゃないかって思うことがあるよ」  度胸というより怖いもの知らずという気がして、貴路は心配になった。  野々宮 兎月の特異性をひつじに話すべきかどうか、まだ迷っている。

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