その世界は月を憎んだ。 太陽神は自らが絶対的な光になるために自らの影を切り離して、それが月になったのだという。 月神は、生まれた時から孤独だった。だからこそ、強く愛を求めていた。 「独りはさびしい。だから作ればいい……」 ――月を愛す存在を。永遠に共にいる存在を。 「あ……」 青年は小さく声を漏らし、体を震わせる。 「これで、不老不死の研究が進む」 冷たい声で男は告げ、青年から採取した血を持って去っていった。 森の中、高い塔の上。この世界で一番月に近い、忌むべき場所。 「……今日は、もう終わりみたいだ」 見れば西の空に月は沈みかけている。青年はこの時間が一番好きだった。 【実験】は夜の間だけ。朝になれば学者たちはおもむろに去っていく。 裸の体にシーツを巻き付けて、窓から月に語り掛ける。 つけられた傷はほぼ塞がっていた。 「今日も綺麗だね。月神様。どうしてあなたをみんなが悪くいうのかおれにはわかんないや」 彼には名前はない。 実験体01。 子どもが産まれないとされる月の時間、満月の夜に生まれた異分子。 冥界の夜の色とされるラピスラズリの瞳。 浅黒い肌。月光のような白銀の髪。 母親も父親もわからない。 洞窟の中に隠すように捨てられていたから。 太陽神を祀るこの世界では月神の象徴のような彼の誕生を不吉と捉え、すぐに処分命令が下ったが、忌むべき存在でも彼は神に愛されしもの。 薄い胸の中心には証のようにセレナイトが煌めいていた。 王は悩んだ末に、研究所に彼の身分を引き渡した。 「忌み子をどう扱おうがかまわん。だが、殺してはならない。殺さない限りは――」 忌み子といえど、月神に愛された存在。 研究員たちは彼が幼い頃は、手荒な真似はしなかった。 名前も与えられず、塔の中の世界しか知らないように育てられたが、それでも衣食住はきちんとしていたし、必要以上に【実験】をされることもなかった。 だが、穏やかな日々はある文献に残された伝説と、彼が「月に呼ばれる」ようになったことで崩れ落ちた。 その伝説とは―― 月神の事実上の不老不死伝説。太陽神はもちろん不老不死だが、元は太陽神の一部であった月もその力を受け継いでいる。 神託で、その事実は真実と太陽神は告げ、さらに衝撃的な事実が明かされた。 月に呼ばれるようになった忌み子には、月神の力が宿る。 そして、この国において成人年齢を迎えた実験体01はその夜に月に呼ばれた。 「月神様の声がする」 その夜は不思議なことに塔には誰もいなかった。彼は導かれるままに塔を出て、森の廃教会へと向かった。 風はない。道標のように月光の道を辿ると、そこに銀色の髪を持つ男が立っていた。 「待っていたよ。私の片割れ」 「片割れ?あなたは月神様、ですよね」 「ああ。今から君を私のものにする。永遠に」 彼は壊れかけた椅子に押し倒され、簡素な実験衣の紐を解かれる。すぐに全身が露わになり、胸のセレナイトが強く輝いた。 「これからこう名乗るといい。ルナルージュ」 「……あ」 満月に照らされながら、彼は月神のものへと作り替えられていく。 白銀の髪は、柔らかな月光の金へ染まり、浅黒かった肌は白く透明に。 「綺麗だ。ルナルージュ。だけど一度では同じになれない。……君は【実験】されているから、週の最後の日の月が沈むまでの間だけここで私に身体を委ねてくれればいい」 月神はそう言い残して去り、ルナルージュは実験衣を身につけ直して塔へ戻った。 「月神、さま」 唇にまだ月神の温もりが残っているような気がした。 青年がルナルージュの名を月神から与えられたことは、神託によってすぐに明らかになった。 王は研究員たちに不老不死の研究をするために、ルナルージュの体液の分析を進めるように指示を出し、 「やだ……痛い……っ」 【実験】に体液の採取が加わった。 それは満月の夜のこと。 ひとりの研究員が月の狂気に飲まれた。 「お前、綺麗な顔になったな。もう、何をしてもいいと言われているから」 かちゃり。実験衣をはだけられ、逃げられないように手足を寝台に繋がれる。 荒い息遣いの男が、肌をなぞる。 「ひっ」 「お前に本当に不老不死の力があるのなら――お前を喰らえば、」 その言葉で、ルナルージュは男が自分をどうしようとしているのかを悟った。 絶対に嫌なのに、今の彼には抵抗する方法すら与えられていない。 絶望のまま、叫ぶ。 「いや……!いやあああっ!月神様……助けて!」 叫びと共に、ルナルージュの中で何かが弾け飛んで―― 「よくやった、ルナルージュ」 「月神様………?」 なんだろう、口の中が甘い。 「どう?人間の血の味は」 「え?」 言われて手を見ると、赤く染まっている。そして自分が襲い掛かった男の首に噛み付いていることに気づいた。 「おいで、ルナルージュ。怖かっただろう?廃教会に行こう」 「はい」 息絶えた男を床に転がして、迷いなく月神の手を取る。 奇妙なことにそのことに罪悪感も嫌悪感もなく。 「……おれ、あの男に対して悪いとも思ってない。そんな自分が怖いとも思わない」 「あれは正当防衛さ。君の場合は【実験】を受け続けてきたし、君があの男を殺さなければ、おそらく体を開かれた上で、君が殺されていただろう。不老不死の【実験】と称してね」 ルナルージュは恐怖で身を震わせる。 「そんなの、おかしいし、嫌だ……おれは、月神様の贄と言われてきたし、ずっと月が好きだったから、月神様になら、あげてもいいし、怖くもないけど……」 初めて月神に愛されて、ルナルージュという名前を貰った日。 初めてだったのに何も怖くはなく、ルナルージュは自然にその行為を受け入れた。 「ルナルージュ。大丈夫だ。怖い方が普通なのだから。そして、そんなことをいうと本当に貰ってしまうよ?」 月神がキスを落とす。 「もらっていい。おれは、この国もこの世界も大嫌い。おれを傷つけて月神様を傷つける世界になんていたくない!」 ** 森の中の廃教会は今日も静かに月に照らされていた。 ルナルージュは抵抗せず、体を月神に委ねる。 「あったかい……月神さま、あったかい……」 「私は元々太陽の一部だから温もりぐらいはあるさ。ルナルージュ、本当にいいのかい?おそらくこの行為を終えれば君は、完全に【月の眷属】になる。共に永遠を生きることになる」 「あの塔で好き勝手されるのはもう嫌です。おれの体液が不老不死の薬になるかもなんてわけのわからない理由で、からだまで奪われそうになった。ずっとおれを見ていた、世界でたったひとりの大好きな月神様。あなたこそ、おれでいいんですか?」 ルナルージュは涙をこぼす。その涙を優しく月神が拭った。 「じゃあ、一緒に行こう。世界から嫌われた同士で、世界に嫌われたもののための優しい街を作ろう。私は、君がいい。ルナルージュ」 「あ」 月神と融けあって、何かが変わっていくのをルナルージュは朧げな熱の中で感じていた。人間である自分が壊れて、崩れて、別のものとして生まれ変わっていく。 「おれも、あなたがいい。だから、永遠の夜を……いっしょに……」 ** 月神は柔らかい笑みを浮かべる。傍にはルナルージュ。 「この常夜の街もずいぶん人が増えたものだ」 「本当だ。もうどれだけの月日が流れたかわからないけど」 ルナルージュは月神にキスを落とす。 頭上には赤い月が優しく輝いている。 「太陽は温かい。だが眩すぎて、暑すぎて苦しむ者もいる。ルナルージュ、君がそうだったように。元々は太陽神の残り滓。そんな私が誰かを救い、愛し愛されるなど、君に出会うまで考えもしなかったな」 「おれは月の方が、あなたに呼ばれる前から好きだった。月神があそこまで悪く言われる理由もわからなかった。夜も、あなたに会ってから怖くなくなった」 ふわりと風が舞って蒼月薔薇の香りが立ち込める。 「永遠を選んだことに後悔は?ルナルージュ」 ルナルージュは首を横に振る。 「まさか。あなたを選んだこと。この優しい箱庭を作ったこと。後悔なんてひとつもないから、だから、ください」 月神は優しく目を細め、 「ふふ。今日は月が大きいから。それでは、幸せな月夜に溺れよう」 月は赤く、永遠にこの街を照らす。 赤い月に守られた月の子どもと人間が共存する優しい箱庭。 その名を「常夜の街」という。
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