シェアハウス『大切な花』
第1話 「上京」(第1筆者:葉桜ことり)

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 まだ20時だというのに、起きていてはいけないような空気が漂うそんな家庭で星野ローザは育った。  時代は令和に入り、加速と進化の文明の中で星野家は先祖代々゛清貧の思想゛を重んじているのだ。  6人姉妹の長女として24時間、365日慎ましさを求められ手本を示さなければならない事を ゛使命゛と取るか゛苦痛゛と取るかは置かれた状況次第ではあるが、たまには無駄を承知で他の学生達と同じように贅沢したい衝動に駆られるのは決して罪ではない。  反抗して居心地を悪くしたところで他に行ける宛もなく腑に落ちない何かを心の内に飲み込みながら18年経った。  草木に囲まれた小さな家の天窓から無限に広がる星の瞬きを眺める事は、質素な生活の中で唯一、ダイヤモンドのような輝きに胸を焦がし、また、安らぎでもあり、就寝前の日課となっていた。  何不自由ない、しかし、何かが足りないのだ。  星野家の手本だと納得してもらえるあらゆる手段で、ローザはこの春から家を離れる理想的な理由を手に入れ、心は舞い上がっていた。  上京前夜、ローザは今まで慰めと希望を与えた続けた星たちに゛礼を言いたい゛と19時には就寝の準備に取り掛かっていた。  街頭のない田舎は、すでにあたり一面、暗闇と静寂の中にあり春の夜空に大曲線獅子座が、礼を伝えるにふさわしい眩い光を放っていた。  見慣れた天窓から見える星たちに向かってローザは、思い付く限りの言葉を妹達に聞かれないよう、心の中で伝え尽くした。  次の瞬間、ハッとする速さで2つの流れ星が獅子座の真ん中を通り過ぎていったのだ。   ローザは瞬時に゛祝福゛を感じとり、今までの緊張の糸がスルスルと解け、妹達に『おやすみなさい』も言わず深い眠りについてしまった。  目覚めると食卓には、星野家では当たり前の箱型のまま乾かした牛乳パックをニ等分した ゛屋形船のような形の弁当箱゛ が今日は特別に黄色いリボンがくるくると巻かれ置いてあった。  大判のハンカチで包みながらそっと中身を覗くと゛いなり寿司゛と、妹達が作ったらしき、ボソボソの゛クッキー゛が詰められていて、ローザはこれは愛情だとわかっていながらもこのもてなしの屋形船弁当には頭を抱えるのだった。 ゛夢に描いた初の東京ランチ ゛  門出の日に一瞬で田舎臭さに染められたようなどこか不甲斐ない気分がして、深呼吸しながらわからぬようにため息を一緒に吐き出した。  また、横には薄桃色の折り紙に、喧嘩こそしないが沈黙を貫き通した関係性である父の字で ゛ダイトウキョウ、イッテラッシャイ、ナイテカエルナ゛ と謎の片仮名の解釈に首を傾けるローザに対し、父は横目で、ただ眺めるのだった。  この沈黙はローザの気に障り天窓から広がる青空を見上げ、見えるはずのない星たちを探すのだった。  星は隠れているが、朝の木漏れ日には、何らかの精神作用をローザにもたらした様子で6人姉妹の長女らしく、凛とした佇まいで 『星野家のみなさん、今までお世話になりました。東京で学業に励み人生の修行をして参ります。』と最後の手本を見せたのだった。  朝の支度をしていた妹達もこのときばかりは動きを止め、ローザに何か言いたげな表情でそれぞれみつめていた。  荷物を持って庭に出ると、遮るかのように老人クラブによる送り出しの儀が待ち受けていた。 『東京に染まっちゃならんべぇ』と何度も繰り返される歌と不安を煽るような不協和音。  繰り返されてきた悲しい春の風に吹かれながらローザは唇をかみしめていた。  幼い頃から知っているねじり鉢巻の会長の弥助さんは、随分と腰が曲がっている。  時々、腰をさすりながら声高らかに歌い上げ、お供の四人衆の尺八や三味線、和太鼓はさえぎるものなど何もない田園風景に響き渡っている。  先の短い人たちにとって、この送り出しの儀が意味するものの意味を悟る事はローザには到底出来なかった。  2時間に一本の逃すわけにはいかないバスの時刻が気になっているローザは、長引く歌につま先とかかとは交互に地面を蹴りながら、頃合いをはかっていた。  弥助さんにはおんぶも抱っこもしてもらった恩がある。  押し迫る時間との戦いの中で、だんだんとかすれていく弥助さんの歌声とドーンドドンの後に一息つくその太鼓の音の隙間で 『ありがとう。染まらね、染まらね』と手を振り、解けた靴紐も気にせずとにかく全速力でバス停へと走り続けた。  大きく揺れたもてなし屋形船弁当は、バスから船に乗り換える際の25分の待ち時間で味わう事なく頬張っていた。  船を待つ人の視線などどうでもよかったのだ。  華やかな世界への眩い憧れは、振り返るものなど一つもない。  ローザは潮風に吹かれながら東京の地図を誇らしげに眺めていた。    ローザは中学の時、紐付きでないキャップ式の水筒を母にねだり誕生日でもないのに買ってもらった事がある。  東京ではオシャレなカフェが数え切れないほどあるのに、母は6年間使い続けて色褪せた水筒に得意のびわの葉茶を入れローザの知らぬ間にリュックに忍ばせていた。  お茶代の節約と健康を考えた感謝すべき母性は、都会で生まれ変わりたいローザにとっては、これからの ゛夢の東京生活゛  色褪せた水筒を見るたびに星野家の匂いを感じずにはいられない気がして胸には霧のようなものが立ち込めていた。  それでも、喉の乾きは抑えられず、  ローザはデッキに出て、びわの葉茶を一気に飲み干した。  充分な睡眠量で備えたのに、ローザの呼吸は次第に浅くなっていた。  早朝から全速力でバス停まで走り、1時間バスに揺られ、船、また、バスに乗り、電車は4つ、その1つには初めての地下鉄、また、その1つにはもちろん初めてのモノレール、田舎で出会う一年分以上の人混みと歩く速さに目が回っていた。  これまで経験したことのない一日の情報量は精神的な疲れをも導き、ローザは夢の東京ランチの余裕など早くもなくなっていた。  ゛清貧の思想゛ゆえに、携帯機能など使いこなす術も知る訳わけもなく地図とメモ1枚を頼りにしながら、道に迷うたびに通行人に声をかけていた。  高いビルを見上げて呆然としているローザは見る人から見れば恰好の獲物である。  名もなき画家の高価すぎる絵画を売られそうになったり、「靴を磨いてあげる」など紐靴には不必要な商売人にしつこく呼び止められ、恐怖を感じながらも、やっとの事で最寄り駅まで辿り着いた。   西陽はさしているが、東京の空はどんよりとした厚いベールに覆われ、建物の隙間から垣間見る光と影の世界。  ローザのいた田舎の澄んだ空気とは対照的で油絵を観ているような感覚に陥るのだった。    手元の地図により、シェアハウス『大切な花』は駅から根性坂と呼ばれる長い長い坂道をまっすぐ行けば辿り着く事がわかった。  今日最後の体力を振り絞り、華奢な体でローザは両腕を前後にこれでもか、というほど揺らし坂道を駆け上がった。  息を切らし坂道を登りきった途端に空気の色が変わり、春だというのに風鈴がチリンチリンと響き渡っていた。  安堵の大きなため息をついてあたりを見回すと、新築らしき住宅が並ぶその真ん中に、昭和初期の匂いを残し魔女でも住んでいそうな佇まいで庭中に薔薇がはびこる一軒家が目に止まった。  ローザは直感で、ここが始まりだ、と悟った。  ゆっくり歩きながら、玄関らしき場所に立つと、薔薇の隙間に『大切な花』と緑色で書かれた小さな表札があり、ローザは静かに3回ノックした。  しばらくして、室内からガタゴト物音がして、 「お待ちしてましたよぅ」  と優しげな老婆らしき声が耳に入った。  開かれた扉から作り立てのスープのような香りがして、幼い頃に見た絵本の記憶が蘇り、夢と現実のはじまりに心が震え、あろうことかその場で気を失ってしまった。

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