残照
6-1

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「樹なら、なんて言ってあげる?」  顔を夕空へと向けた風香は、どこか切なそうだった。 「なにがあったの」 「昨日、久しぶりに眠れなかった。顔がね頭にべっとりこびりついて離れないの。あのままじゃあの子」  風香は手を頬に充てて、うつむく。珍しく感情に踊らされ、苦しんでいるように見える。  何が合ったのか、事情を口にしないのは、きっと風香が風香自身で答えを出すべきだと考えているからだ。  だから僕はただ彼女の言葉に耳を傾け、横で静かにバナナオレを飲んでいることしかできない。 「そう・・・・・・それは、つらいね」 「悩みを共有するって、どういうことなんだろう。わたしも、同じ目に遭えば、わたしの言葉は届く?」  美しい瞳が揺れている。僕は胸を締め付けられる。 「もし、その子が風香を大切に思っているのなら、風香が同じ目に遭った時、まずは悲しむんじゃないかな。そして、意図的だと知ったら、きっと怒る」 「樹・・・・・・・」 「それが、友達ってものなんじゃない。たぶん、だけど」  僕は照れくさくて風香の方は見れなかった。相変わらず退屈な街並みを見ろしながら、バナナオレを飲み干す。やがて僕の耳を彼女の柔らかな笑い声がそっと撫でた。 「そうだね。たぶん、樹の言う通り」  ※  約束通りにたっぷりと休みをもらった僕は、バスに2時間ほど揺られて久しぶりに地元へと帰ってきた。  僕の生まれ育った町は、一言で表すのならば田舎だった。海と山、自然があるといえばそうなんだけど、高校生なんかは遊び場に困ったりして、都会への幻想を抱かせるには十分すぎるほど何もない、静かで小さな町だった。実際、同級生たちが都会での日々を待ち遠しそうにしているのを耳にしてきた。  ただ、僕は彼らのようにこの町に対して不満を持つようなことはなかった。元々人付き合いを好まず、ゲームと本があればいい僕にとっては、この町は苦にならなかった。僕が周囲の人間とはずれているのだと自覚する、初めのことだったと思う。  そういうわけで、帰郷しても、何かをする予定はほぼ無かった。一か所だけ、中途半端な景色の下へと行くつもりではあったけれど、それに関して時間的な拘束はない。好きな時に行き、好きな時に帰ればいい。当時からそうであったように。  無事に家についた僕は、母と一人暮らしに慣れてきたという話をしたり、父に単位の話なんかをして、長旅の疲れを癒そうと、早めに部屋で休むことにした。  部屋は大半片づけられていて、ベッドと机くらいしかない。僕はだいぶ殺風景になった自室に入り、着替えなどを入れた鞄を置いて、机の傍にある窓を開けた。虫の声、夏の匂い、満月、うだるような暑さを除けば情緒的で素晴らしい夜だった。  僕は鞄の中から日記を取り出した。黒い表紙を、指でなぞる。それから机のライトをつけて光を限りなく絞り、椅子を窓の傍に寄せて座った。月光と机のライトに照らされた日記は、そうすることでようやく見えなかった何かが浮き上がるような気がした。 『月って、おいしそうだよね』  いつもながら理解に苦しむ一言。僕は笑ってしまう。不思議、ただもう不思議に不思議だ。  今夜はなんだか少し気分が良くて、窓の外を再び眺めると、立ち並んだ家々の光に目が惹かれる。都会のように煌々としたものではなくて、どこか儚げなのが良いという持論を風香に披露すると、同意してくれたことを思い出した。  階下から聞こえてくる両親の笑い声、どこかで花火をしている音、紙の上をなぞる音がしている。  そして、僕と橘風香がいる。 『人は希望に向かって生きられるけれど、絶望に向かっては生きられない。だから私は日曜日が嫌い』 『人の心は月のようにはできていないの』  格言なのか単なる言葉遊びなのか、それを判断するのは聞き手として選ばれた僕だろうか。  いったいどれくらい世界に浸っていただろう。僕はふっと息を一つ吐いて、日記を閉じた。鞄にしまい、僕はベッドに寝転がった。  携帯を開く。彼女から連絡は来ていない。結局、実家に帰ったんだろうか。今、何をしているだろう。あれこれと想像してみるけれど、皆目見当もつかなかったので、電話をかけてみようかと思った。  しかし、かけたところで話すことはない。何かしら会話はするだろうけれど、別に電話をしてまでするような話はない。もう寝てしまっているかもしれない。  僕は考えを取り払って、ネットを見ることにした。しばらくそうしていると眠気がやってきて、僕は目を瞑った。    帰省して三日間、僕は家から一歩も出ることなく過ごした。良く言えば、趣味に没頭していたということになる。悪く言えば、ひたすらにだらだらと、怠惰な時間を命いっぱい味わっていたということになる。その間、鈴野とは一度も連絡をとらなかった。ときおり、あることだった。急に連絡が途絶えて、かと思えばふらりと僕の前に現れたりする。そういう奴だった。だからいつものことだと、鈴野のことは一旦置いて、僕はひたすら休暇を堪能した。  ※  僕が久しぶりに外に出ようと決意したのは、四日目のお昼前のこと。ぱらぱらと降り出した雨を室内からぼんやり眺めていると、元クラスメートたちから飲み会に誘われたのだ。外出する機会としてちょうど良いかと、誘いを受けることにした。  母には、なぜよりにもよってこんな雨の日に出かけるのかと問われたので、「同窓会」と、嘘ではないけれど、正確ではない理由を伝えてから、実に三日ぶりに外出した。  隣町に到着した時、時刻は16時だった。久しぶりに降り立った街は、さすがに1年ちょっとではたいして変わらない。けれど胸中には感慨のような感情が巻き起こって、自分を笑った。  僕はまず通っていた高校の近くにある本屋に向かった。目的の本があったわけではないけれど、そういう気分だった。時々、ただふらりと本屋の空気感を味わいたくなって立ち寄ることがある。それを風香に言ったら、『よくわからない』と言われた。  本屋にたどり着くと、急に雨が強く振り出した。ゆっくり本屋で過ごすように告げられた気がして、僕は少しだけ嬉しくなった。  店内の客は想像していたよりも多かった。部活終わりなのか、懐かしいジャージを身に纏った男女、店員と楽しそうに話している中年の男性、真剣に参考書を選ぶ中学生らしき男子がぱっと目についた。  僕はまっすぐ小説のコーナーに向かい、新刊から著名なものまであらかた立ち読みをしようと思った。はたきで追い払われようものなら、それはそれで今晩の肴になるだろうとくだらないことを考えながら、小説の世界を次々に廻った。  途中、興味を惹かれて、購入しようかという本にいくつか出会ったけれど、まだ読み終えていない本たちが頭をよぎり、さらに街へと戻れば友人との時間に追われることになる。想定される忙しさが僕を正気にして、やむなく本を戻す。  興味のある小説は大体見終わったので、漫画コーナーを物色していると、ズボンのポケットに入れていた携帯が僕を呼んだ。手にしていた漫画を戻し、携帯を取り出す。連絡してきた主は今晩の幹事を務めている森下という男子からだった。  当時から彼は仕切り役を任されることが多かった。実際は任されるというより誰もやらないのでやらされていたというわけだけど。  ただ本人的に、その役回りはまんざらでもないらしかった。当時はまるで理解できなかったけれど、いまの僕は少しだけ、彼の言うことに共感している。  森下からのメッセージは、今晩の店は彼の名前で予約しているということと、改めて今日の集合時刻が18時であるというものだった。真面目な仕切りっぷりに僕はくすりと笑ってしまった。僕は何度か文章を打ち、消し、結局ただ、了解したことと礼を述べることにした。  返信した後、時刻を確認すると17時だったので、僕は店を出ることにした。雨足は落ち着いていたけれど、傘が必要なくらいには降っていた。  まだ集合までは1時間ある。僕には早めに集合しようだなんて殊勝な心掛けはない。早めにこの街に降り立ったのは本屋のほかにも、行くところがあるからだ。  薄暗くなった街を、水溜りに気をつけながら歩く。途中一度コンビニに立ち寄って、僕は飲み物を購入した。これから向かう場所に入る、許可証のようなものだった。無論決めたのは僕自身だけど。  一歩また一歩と、始まりの場所へと近づいていく。20分くらい歩いて、あの時と全く変わらずにある石段にたどり着いた。ここに来るのは、風香がこの世界からいなくなってから初めてのことだった。足を滑らせないように注意しながら、濡れた石段を一つ一つ昇っていく。風で脇を埋める木々が揺れ、まるで僕の到来を伝えてくれているんじゃないかという気がした。  それにしても。僕は心の中で呟いて、随分と息が上がっている自分に苦笑した。日ごろの運動不足、体重もあの頃よりいくらか増えているせいもあってか、軽々昇っていたはずの石段がやけに長く困難なものに感じた。  きっと彼女は笑っているだろう。けれど、運動した方がいいとか痩せた方がいいとか、そういう事は言わない。彼女なら、時の流れを、切ない詩でもって僕に届けてくれるかもしれない。あるいは、僕の退廃的な変化に思いもよらない金言を授けるかもしれない。彼女は、僕は、自分でもわからないくらい、どこか変だから。  やっと終わりが見えてきた。一度立ち止まって振り返ってみると、運動しようかという自省の念のようなものを起こさせるほどに、大して段数はなかった。深呼吸のような、ため息のような、とにかく大きく息を吸って吐いた僕は、一気に数段を駆け上り、追憶の場所へと帰ってきた。  大きな二本の木と、ベンチが一つ。街のほんの一部が見えるだけの、中途半端な場所。  何も変わっていなかった。  僕は木の下へと歩み寄って、買っておいたバナナオレを飲むことにした。あのころ飲んでいたものとは全く違う。缶ではなく、容器はプラスチックだし、果肉も入っている。あらゆる変化に、違いに、風香はなんと言うだろう。  僕は返答を待つ。けれど、やっぱり答えが返ってくることはなかった。当時からそうであったように。  虚しさが押し寄せてきて、傘を持つ手が緩み、支えがなくなった傘は頭を垂れた。僕は空を見上げた。雨粒が顔を叩く。ここを訪れてしまったことに、いまさら後悔の念がこみ上げてきた。胸が苦しくなり、頭痛が僕を襲った。もう一度手に力を入れて、傘を頭上に戻す。遮られた雨粒は、僕に文句を浴びせるように、激しい音を立てる。僕はバナナオレを一気に飲み干した。  誰かに笑われているような気がした。  空になったバナナオレの容器を、恐らく誰も座らないであろうベンチの上に置いた。  飲み会にはいかず、もう帰ってしまおうかという考えがよぎる。そして、携帯が鳴った。いつもタイミングが良いなと苦笑し、少し迷って、出ることにした。 「よ、久しぶり。成瀬もうつく?」 「久しぶり。いや、まだだよ。早くない?」 「そうなんだけどさ、俺はりきっちゃってもう店の前なんだよね」 「この雨の中?」 「そうそう、で、暇だから同士を探してたのよ。いつごろつく?」 「そういうことなら、すぐ行くよ。街にはいるんだ」  弾みでつい、そう答えてしまった。 「お、さすが。サンキュー、んじゃ待ってるわ」  元気いっぱいな元クラスメートとの電話が終わり、僕は携帯をポケットにしまった。今更帰るなんてとても言い出せなかったので、おとなしく、飲み会に向かうことにした。  立ち去る前に一度振り返って、木とベンチを見た。きっと、もう二度と来ることはない。ベンチの上に置いたバナナオレの容器に謝罪を告げて、僕は濡れた石段を下った。

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