けたたましい音と共に、飛び起きたのは僕の方だった。あまりにうるさいので仕掛けたことに後悔しつつ、ベッドに向かいアラームを止めた。驚くべきことに凜は動かなかった。念のため耳を澄ませてみると呼吸音がした。 それからどうしようか考え、とにかく朝のルーティンとして頭や顔を洗い、歯を磨き、着替え、テレビをつけて適当なニュースを流した。一応病み上がりらしいので、仕方がなく、起きるまで待ってあげることにした。 そして、僕の優しさにたっぷりと甘えた凜が目を覚ましたのは正午前だった。山の様に動かなかった彼女が突然むくりと起き上がった。乱れた髪であたりを見回し、僕と目が合った。 「おはよう」 普段学校で会う時や、喫茶店で待ち合わせをするときなんかと同じ調子で言ってのける。僕も社会のルールにのっとり、挨拶を返す。 「ここは、どこ?」 「僕の家だよ。記憶なくすほど飲んでないでしょ」 「まあね」 「あと、寝室には入るなって言ったよね」 「いやあ、眠たくて」 「君のおかげでソファで眠ることになって、酷く窮屈だったよ。体も痛い」 「え? なんでベッドで寝なかったの?」 「なんでって、そりゃ、そうでしょ。君が使ってたんだから」 「でも、私そんなに体大きくもないし、隣で眠ればよかったのに」 「いや、そういう問題では」 「ふーん。まあ、とにかくありがとう。おかげで頭もすっきりしてるよ」 病み上がりにあれだけ酒を飲んだのに、確かに、少し顔色がよくなっていた。 「それは、うん、良かった」 「お腹すいたね」 「僕もそうだと勝手に決めつけたね」 「うん、実際そうでしょ」 「まあ」 「よーし、どこいこうか」 「そんなの、決まっているじゃない」 久しぶりの対面になった理恵子さんは、凜の顔を見るなり思い切り抱きしめた。熱烈な歓迎ぶりだった。凜は呆気にとられ、本当に困ったような表情で腕の中で固まっていた。他のお客さんは偶然にもいなかったけれど、いたとしてもこの人ならこうしただろうと僕は勝手な想像をした。 その後、僕と凜は同じサンドウィッチを頼んだ。快気祝いだと、特大のパフェもついてきた。朝ご飯を食べていなかったことが幸いして、僕はなんとかサンドウィッチとパフェを食べ終えた。口元をふきながらちらりと凜を見ると、無表情で黙々とパフェを食べていた。僕の見立てだと彼女はもうお腹いっぱいのはずだ。普段なら、僕に食べろと言ってくるころだった。けれど今日は一心不乱にスプーンを動かしていた。僕はその光景に、祖父母や親せきのおじさんを思い浮かべた。 理恵子さんや店長がキッチンで作業しているのを確認してから、小声で、食べる手伝いを申し出ると、凜は無言のまま首を横に振った。病み上がりを指摘すると、首を縦に振った。それでも食べるのをやめなかった。時間は非常にかかったけれど、凜は見事に全て食べきった。おいしかったかと訊く理恵子さんに、凜はへたくそな笑みで、何度も頷いていた。 「見直したよ」 食後のコーヒーを頂きつつ、僕は凜にそう言った。 「何が?」 「食べきったこと。お腹、一杯だったでしょ」 「あー、はは。ばれてたか」 「だいぶ経つから。あ、でも別に残したって見損ないはしないけどね」 「本当?」 「うん」 「怪しいなあ」 「信用してよ。ずいぶん経つんだから」 僕たちが話していると、やがて我慢できなくなったのか、仕事を放り投げた理恵子さんが強引に凜の隣に座って、あれこれと会話をしだした。終始困惑する凜を、僕は笑いながら眺めていた。日常が戻ってくるのだと、安堵を覚えた。 店での時間を過ごした僕達は、仄かな陽光が店内に広がり始め頃、帰宅することにした。理恵子さんは名残惜しそうに、僕たちに泊まっていくように勧め、店長に怒られていた。また必ず来ますと、まるでどこか遠くに行くみたいな、大袈裟で恥ずかしい約束をして店を後にした。 「良い人たちだよねえ、ほんと」 最寄りの駅まで見送ることにして歩いていると、凜がぽつりと言った。 「そうだね、雇ってもらおうかな」 「就職? いいね、そうしなよ」 「君が来るまで一年間みっちり修行して、先輩面してあげるよ」 「私も雇ってもらうの?」 「もちろん」 「樹が決めることじゃないでしょ」 凜は苦笑いを浮かべた。 「もしそうなったらあの二人が、嫌だって言うと思う?」 「・・・・・・わからないよー、それは」 「まあでも、あれだね、ああいうところに居られたら本当にいいんだろうけれど」 「うん、そうだね」 短くはあったけれど、久しぶりに二人で並んで歩き、駅に着いた。 「それじゃ、気を付けて。酒は今日は飲まずに早く眠るように。あと講義に来るなら忘れ物しないように。あともう二度と病み上がりで寒空の下を歩かないように、あと、無理して食べ物を食べないように」 「うんうん、ありがと」 凜はへたくそな笑顔で何度も頷いた。やはり待ち望んでいた言葉が来ないことに僕は苦笑したけれど、言ったこと自体は本気で思っていることだったので、守ってさえくれればそれでいいかと納得することにした。 別れの挨拶をして、僕は帰宅した。 ちゃんとした睡眠でなかったこともあって、僕は家に着くなり疲労でベッドに倒れ込むと、携帯が鳴った。凛からだった。忘れ物でもしたのだろうか。 「どうしたの」 「あー、うん、一個だけ、訊きたいことあってさ。ほんとはね、昨日寝ちゃう前に訊こうと思ってたんだけど」 「うん」 なぜだか、胸騒ぎがした。 「樹ってさ・・・・・・行った?」 「なにに?」 「風香の・・・・・・さ」 「・・・・・・え?」 「あー、ごめん。やっぱ、忘れて」 「ちょっ」 「ごめん!」 電話は切れた。僕はしばらく携帯を耳に当てたまま、凛が何を言おうとしていたのかと必死に考えた。 けれど、まったくわからなかった。 今度会ったら直接訊こうとも、思わなかった。
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