残照

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 彼女はしきりに、僕になりたがっていた。  僕のようになりたいのではなく、僕になりたいのだと。  僕にはその理由がわからなくて、どれだけ教えて欲しいと頼んでも、いつもはぐらかされてしまう。僕がいつも知りたいと願うことは、全て教えてくれない。  僕がしつこく聞くと、そういう時、彼女は決まって、まるで僕の全てを見透かしいてるような笑顔で「今日はもうお別れ」と告げ、戻って行ってしまう。  彼女が何か大きな秘密を抱えているのは明らかだった。  しかし、秘密を秘密にはしない以上、きっと彼女は僕に打ち明けたがっているのではないかと、願望のような、哀れな期待を抱いていた。  本当に、そうであればいいと思っていた。  彼女がもし打ち明けることを躊躇うような悩みを抱えているのだとしたら。  僕は、力になりたい。  彼女を助けるのは、僕でありたい。  だって、僕は彼女のことを。                                               3  ※  掴み損ねて、足元までおにぎりが転がってしまった。食べたい具ではなかったけれど、落としてしまった手前、元に戻すのは気が引けて、やむを得ずカゴに入れた。 「あ、樹先輩、お疲れさまっす」  唐突に聞こえた声の方を振り返ると、別の大学に通う後輩、高峰日向が立っていた。入学してさっそく染めたらしい金色の髪は、高校時代から付き合いのある僕としては、まだ見慣れない。 「お、おおう、おつかれ」 「そんな驚きます?」  日向はにやにやしながら、両耳のイヤフォンを外した。 「集中してたんだよ。まずいのひきたくないだろ」 「いや、大概なんでもうまいっすよ」 「それはお前の味覚がアレだからだろ」 「ひでー、なんてこというんすか」  久しぶり再会に少し話でも思ったところで、店内は昼食を買いに来たのであろう学生たちで段々と賑わってきた。僕たちはひとまず会計を済ませ店を出た。日向のジュースも買ってあげることにした。 「ごちそうさまっす!」  ペットボトルを受け取った日向はよほど喉が渇いていたのか、テレビのCMみたいにおいしそうに飲んでいた。「購買意欲が沸いたよ」と言うと楽しそうに笑った。 「ところで先輩このあと暇っすか? カラオケ行きません?」  互いの大学生活の話がひと段落ついたところで、日向はそう言った。僕は特に予定が入っていなかったから誘いを受けることにした。 「ああ、なんもないし、いいよ」 「よっしゃ」  日向は嬉しそうに笑った。とても素直なこの後輩は、僕のようなおかしな人間にも気軽に、怖気づくことなく話しかけてくる。以前、日向の人柄について人に訊かれたことがあったけれど、明るくて良い奴だと簡単に答えられたことを思い出す。  カラオケへと向かう前に、腹ごしらえをしたかったので、一度僕の家に向かった。僕が昼食をとる間、日向は慣れたようにソファに座り、録画していたアニメを見ていた。途中、キャラクターについての説明や、ストーリーのおさらいを求められたので応じつつ、その流れで好みのキャラクターの話になると、日向は何か思い出したように声を上げた。 「なになに、どうした」 「そういや俺ね、彼女できたんすよ」 「マジか。早いな」  そう反応したものの、入学して二か月で彼女ができることが実際に早いのか遅いのか、僕には判断できない。もし仮に早い方だったとしても、日向ならば納得できる。 「いやあ、ドラマチックな運命の出会いでして」  額に指を当ててキザな口調で言った日向に詳しく経緯を聞く。すると何のことはない、同じサークルに所属する友人の紹介で知り合った同学年の女子と、意気投合したとのことだった。 「ドラマチックな、運命の出会い?」 「なんすか、その顔」  日向は不満そうに口をとがらせた。  その時、ふと僕の頭に疑問が浮かんだ。口に出しかけて、それはまったく阿呆らしいというか、聞くだけ無駄なことだと思った。 「ちなみに、苗字は?」 「へ? 苗字っすか? 久保っすけど」  あからさまに不思議そうな顔をする日向に僕はなんと言い訳をしようかと、阿呆らしい考えを振り払えなかった自分自身を恨んだ。  僕たちはいつもそういう話をしないから、仕方がないと、思いたい。 「先輩、相変わらず変わってるっすね。彼女出来たって伝えて、まず苗字を聞かれるとは思ってなかったす。同じ大学かとか、同級生かとかならまだしも」 「ああ、まあ、うん」 「どうしたんすか? なんか、気になることでも?」 「いや。ところで、写真は?」 「そうそう、それそれ。その質問っすよ! ほら見てください、めちゃくちゃ可愛いでしょう」  堂々と言い切る日向を心の中で称賛して、提示されたいくつかの写真を見た。確かにかわいらしい女の子だったので、素直に伝えると日向はとても嬉しそうにしていた。  恋愛ソングばかり歌っていいかと惚気る日向をあしらいながら、僕達は地下鉄に乗り、数駅行ったところにあるカラオケボックスを訪れた。平日の昼間、大学生の特権を利用したおかげか、店内は客もまばらですぐ部屋に通された。 「先輩、なに飲みます? やっぱりコーヒーっすか?」 「うん、そうだね」 「了解です、俺とってきますよ」 「悪いね、ありがとう」 「いえいえ」   気の利く後輩の言葉に甘え、僕はその間、適当に曲を眺めることにした。いくつか候補をピックアップしたけれど、歌詞がうろ覚えだったので検索しようと携帯を取り出し開いた。  そして無意識のうちに、鈴野からの連絡がきていないか、確認している自分がいることに気が付いた。  彼女は、カラオケとか行くんだろうか。マイクを持ち、目を瞑り、バラードなんかを歌う鈴野を想像して僕は一人、笑ってしまった。 「先輩、見てくださいよこれ!」  両手にコップを持ちながら、器用に扉を開けて入ってきた日向は、えらく不機嫌そうだった。 「うわ、めっちゃ濡れてるじゃん」  日向の服とズボンに大きなシミができていた。何だか最近、こんな光景を見た気がする。 「そうなんすよ、酔っぱらったおっさんがぶつかってきたんす。おまけにたいして謝りもしないで帰って行きやがって」  日向は苛立ちを抑えられない様子で手にしたコップを僕の前と自分の前に置いて、ソファにどさりと座った。 「ありがとう。しかし、それは酷いな」 「ほんとっすよ、昼から飲んでんじゃねーよ、まったく」  僕は立ち上がり、壁にかかっている電話の傍に行き手に取った。日向は不思議そうに僕を見ていた。数回のコールの後、店員が出たので、ティッシュかタオルを持ってきてほしいと伝えた。電話を切って戻ろうとすると、日向はにっこり笑っていた。 「ありがとうございます、先輩」 「風邪ひかすとほら、お前の彼女に怒られるかもしれないから」  気を取り直した日向が先陣を切ることになった。日向はまず、高校時代からよく歌っていた曲を入れた。ウォームアップに最適な曲らしい。テレビでも一時頻繁に流れていたので、特に好きというわけでもなかったけれど、僕も歌詞なんかをある程度覚えていた。日向の歌はやはり上手だった。 「これは、モテるな」  アウトロの後。拍手をしながら僕がそう言うと、「まあね」と返ってきた。そこでタイミングよく店員がティッシュを持ってきて、日向は濡れたところを拭いていた。 「あれ、ギターやってるんだっけ」 「あ、はい、やってますね」 「最近も結構弾いてる?」  僕はタブレットを操作して目星をつけておいた曲を入れた。 「そうっすね、さっきの奴とかも弾いてます」 「今度弾き語り頼む」 「さすがに恥ずかしいっす」  日向は困ったような笑みを浮かべた。短いイントロが流れ、僕は歌った。随分久しぶりのことだった。日向は歌詞の表示されるディスプレイを食い入るように見ていた。それを横目に歌い上げた僕は深呼吸して、マイクを置いた。 「やっぱうまいっすね」  拍手と共に、賛辞を受け取った。 「いえいえ」 「ただ、やっぱり訊いたことのない曲でした」 「知らない?」 「はい、グループ名すら。でもそれがいいんすよ。先輩と来ると毎回曲の知識が増えて」  僕は日向の歌う曲をほとんど知っていたけれど、反対に、日向は僕が歌う曲をあまり知らなかった。それは僕があらゆる曲に精通しているというわけではなく、ジャンルというか好みの違いだ。わざわざ、その必要はまったくないけれど、壮大に言い表すのならば、生来の性質の違い、というものだろう。  一曲歌って調子が出てきた僕達は、次々に歌い続けて大いに盛り上がった。二時間たっぷりと歌唱した。  付き合ってくれたお礼にと代金を全額支払おうとする日向を止め、半分ずつお金を出し合った。  最近売れている歌手を日向に教えてもらいながら、店を出ようとした時、突然怒声が店内に響いた。驚いて僕達が声のした方を向くと、二人の大学生らしき男たちに、一人の男が詰め寄られていた。それを見て日向は僕の肩を叩き、声を潜めた。 「あれ、さっき俺にぶつかったおっさんですよ。またやらかしたんすね」  会話の内容を聞くと、日向の読み通りで、酔っ払ってる男がぶつかってしまったらしく、被害者の大学生と思しきコンビは相当ご立腹のようだった。 「天網恢恢疎にして漏らさず」 「へ? かいかい?」  どうなるかと成り行きを見ていると、カウンターの奥から店長が出てきて間に割って入った。いつまでも見ているわけにもいかないので、僕と日向はぼちぼち店を出た。外は雨が降っていた。 「あちゃー、傘持ってきてないっすよ」 「折り畳み持ってる」 「おお、さっすが!」  男二人、相合傘をしながら地下鉄の駅まで歩いた。 「ところで、さっきなんて言ったんすか、先輩」 「ん?」 「店内で、かいかい、がなんとかって」 「ああ、天網恢恢疎にして漏らさず」 「どういう意味っすか? 人生で初めて聞いたんですけど」 「悪いことしたらちゃんとバチがあたる的な意味」 「へー! まさにあの状況ですね」 「いや、待てよ。でもあの場合は、自業自得とか因果応報が適切か?」 「自業自得は分かるっす、いんがおうほう?」 「まあ、似たようなもんだ」 「はあ、そうっすか」 「とにかく、あのおじさんが反省してくれるといいね。大学生二人は、熱くなりすぎだった気もするけど」 「そうっすね。結局本人がわかってくれないと意味ないっすから」  僕はその言葉を大いに肯定した。  それから僕達は窮屈な思いをしながら歩き、地下鉄に乗っていつもの駅まで帰ってきた。なおも雨が降り続いていたので、家にある僕の傘を貸すということになり、二人で僕の家に向かった。 「はー、ついてない。ほんと、鬱陶しいっすね雨。って、あ、すんません。先輩は、雨好きでしたよね」 「ん、まあ、家の中にいる分には、な」 「あー、それはわかるかも。あ、いや、やっぱり俺は晴れがいいっすね」  頭を掻いて苦笑いを浮かべた素直な男に、僕は笑った。  曲も天気も、基本的に僕と日向は趣味が合わない。けれど、不思議と一緒に居て嫌だとか退屈だということはなかった。そのことについて以前僕が口にすると「ないものねだりじゃないっすかね」と、興味深いことを言っていたのを思い出した。続けて、「俺は先輩のこと尊敬していますから」とも言っていた。  僕への尊敬は置いて、ないものねだりという意見はもっともである気がした。  風香は、僕にないものをたくさん持っていた。発想も言葉も、遠く、理解の及ばない未知の領域に彼女は存在していた。  僕の中に彼女が残り続けるのは、彼女のことを知りたいと強く願うのは『ないものねだり』という、日向が僕に抱いてくれているような感情が、あるからかもしれない。 「それじゃ、いろいろどうもっす。また遊びに行きましょう」 「ああ、気を付けてな」  律儀に軽く頭を下げて、日向は帰って行った。聞けばこのあと彼女の家に行き、それからサークルの飲み会があるらしい。相変わらず忙しい男だと呆れつつも笑った。  日向からお礼にともらったのど飴を口の中で転がしながら、僕は窓を開け、ソファに座って一息つくことにした。時計を見ると、お菓子を食す時刻だった。雨音を聴きながら、僕の脳内ではさっき日向が歌っていた曲が鳴っていて、気が付くと口ずさんでいた。  そのうち眠気がやってきて、僕はソファに寝転がった。足がはみ出すのも気にせず、そのまま目を瞑ったところで、狙いすましたかのように、テーブルに放り投げていた携帯が騒ぎ出した。僕は驚いて体を起こし、携帯を手に取る。なんとなくそうかなと思ったけれど、電話の主は鈴野だった。 「はい」  無視する理由もなかったので、僕が出ると、丁度車の通りすぎるような音が聞こえてきた。 「あ、もしもし? わたし」 「うん、いや、知ってるよ」 「あはは、ごめん。お願いなんだけどさ、迎えに来てくれない? 傘持って」 「外にいるの?」 「うん、講義終わり。雨予報とは知らなかったよ」  どうやら世の大学生はよほど天気予報を見ないらしい。 「まあ、どんまい。走って帰ればなんとかなるさ」 「あのさあ、仲良くする気あるの? それに美少女がずぶ濡れになったら、可哀想だと思わない?」 「うん、可哀想だね。美少女が、雨に濡れたなら」 「うわー、性格悪っ! って、冗談! ねえ頼むよー」  僕はどうしようかなと返しながら、立ち上がり、クローゼットからジャンパーを取り出し、鍵と財布と傘を持って部屋を出た。  電話越しに鈴野がああでもない、こうでもないと文句を垂れている。 「はいはい、今家出たから。切るよ」 「おお! ありがとう! 待ってるよー! 正門入ってすぐの建物、中に入って待ってるわ」  雨足は強まっていた。僕の家から大学までは歩いて10分程度のところにある。対して鈴野は地下鉄で通っていると言っていた。大学から地下鉄まででもそれなりの距離があるので、走れと言ったのは冗談でも酷だったと思った。  言われた通り正門をくぐってすぐの建物内に入ると、設置された長椅子に座って物憂げな表情、あるいはまったく何も考えていないのか、読み取りにくい表情を浮かべる鈴野がいた。  僕が近づいていくと、鈴野のすぐ後ろでにぎやかに勉強をしていた男女グループの一人の女子が、消しゴムか何かを落とした。鈴野はそれに気が付いたようで、非常に緩慢な動きながら拾おうと身を屈めた。同時に落とした本人も慌てて拾おうとして、二人は手がぶつかった。聞こえなかったけれど、謝罪を述べたのか、鈴野の口元が動いた。でも、相手の女子はそれに対して何の反応も示さずに、消しゴムを拾った後、また談笑へと戻って行った。  僕は一部始終を目撃した後、どうしてか、そのまま彼女の傍に行く気を失った。なので、踵を返して外に出て、携帯を開き『着いた、すぐ外』と鈴野に送った。  少しして、満足そうに笑顔を浮かべた鈴野が出てきた。僕はあまりに良くできた笑顔に、先ほどの光景は幻か、あるいは別人のものだったのだろうかと混乱した。 「やあやあ、ご苦労!」  から元気かとも疑ったけれど、いずれにせよ、振り返って良い気分になる話でもないだろう。あれこれ沸き立つ感情を仕舞い込んで、僕はいつも通りに振る舞った。 「まったく、どいつもこいつも」 「ん?」 「天気予報くらい見なよ」  地下鉄まで歩きながら、僕はさっきまで日向と一緒にいたことを話した。 「カラオケねえ。どうりで声が少し枯れてると思ったよ。にしても、君に後輩がいるなんてねえ」 「いや、別にそりゃいるでしょ」 「んー、まあ」  唇に指を当て、何かを思い浮かべているような顔をする。 「それで、君は一日ずっと講義?」 「うん、そう。もー疲れた。興味ない話を聞くのって大変だね」 「まあ、そうだね。でも世の中大半の人がそうなんじゃない?」  なんの慰めにもならないことを適当に言った。 「しんどいねー、あと1年近くこれかあ」 「1年どころか、これから先はもっとそういうつまらない時間が増えていくんじゃない?」 「あははー、がんばれ」 「君もな」 「あーあ、とりあえず、明日の講義休みにならないかなあ」 「ほんと、何しに大学来たの?」 「だから君に会うためだってば。言わせようとしてる? 言ってほしいの? しょうがないなあ」 「そんなつもりはない。断じて。美少女に言われるならまだしも」 「友達いないでしょ」 「いるよ。今、目の前に」 「残念。機嫌とるつもりなら、無駄だよ」  鈴野は舌を出して、そっぽを向いた。僕が笑うと、こらえきれなくなったのか、鈴野も笑った。彼女の指摘通り機嫌を取るために言ったわけだけれど、友達だと思っていることについては本心だった。そうすべきだということも、忘れてはいない。 「そんな友人に、僕から一つ」 「え? なになに、どしたの」  およそいつ以来か、僕は真剣に話そうと意識した。そんな様子を察したのか、鈴野は目を丸くして見つめてくる。 「ああいうときは、怒っていいんじゃない?」  さっき見た光景を思いだしながら、切り出した。黙っていようと思ったけれど、やはり我慢ができなかった。義憤に駆られたのか、僕にも良心が残っていたのか、いずれでもない気がする。僕には、僕自身でもよくわからない変なところがあるから。 「どういうときさ」 「さっき、何か拾おうとした時、ぶつかったのに相手何も言わなかったでしょ。それだけじゃなくて、君の謝罪も無視した」 「あー、え、見てたの?」  多少想像も踏まえて言ったけれど、どうやらあたっていたらしい。 「直接言いにくかったなら、せめて僕が文句を聞くよ」  鈴野は沈黙して、何やら考えているようだった。濡れた道を踏みしめる足音と、傘にぶつかる雨音が、よく聞こえてきた。 「うん、ありがとう」  ぽつりととても小さな声で彼女は言った。その声色は僕がこれまでに聞いたことのないもので、無意識のうちに視線が彼女の方を向く。また、虚ろな顔をしていた。 「でもね、本心を言うと全然気にしてないんだ」 「え?」 「確かに私は親切も謝罪も無視されたわけだけれど。もしかするとあの女の子は、とても内気な人なのかもしれない。本当は、私が拾おうとしたことに感謝して、ぶつかってしまったことを謝罪して、私の謝罪にこちらこそって、言いたかったのかもしれない。でもそれを口に出せないくらい、コミュニケーションが苦手な子なのかもしれない」  僕は呆気に取られて、返す言葉が見当たらなかった。 「親切は私が勝手にしようとしたこと。謝罪も私が勝手にしたこと。もしかすると、相手は全くそんなこと望んでいなかったかもしれない。それどころか、私との余計なかかわりに、今頃気を揉んでいるかもしれない。そうなったら、むしろ申し訳ないなーって、思うかな」  降りしきる雨はまるで僕をめがけているような気がした。無表情で淡々と言葉を紡ぐ鈴野のから目が離せなくなった。思いもよらない言葉、何かを否定するでも肯定するでもない。怒るわけでも、悲しむわけでもない。僕の想像になかった反応。  僕はまだまだ、鈴野凛のことを知らない。  日記の中のの少女が微笑む。ようやく気がついたかと、通過したのかと、拍手をくれる。全て彼女のシナリオの上で踊らされている。 「なーんてね。語ってみました!」  ウィンクをして、思い切り笑った。顔も声色も元に戻り、眼前にはまたいつもくだらない言い争いをするときの鈴野凛がいた。 「そう、だね。そうかもしれない」  僕は頷いた。それが精一杯だった。 「ま、でも多分、樹の言う通りだよね。あの後もひそひそ何か言ってるみたいだったし」 「今度あったらビンタしたら?」 「鉄拳制裁? いいね、スナップ鍛えなきゃ。野球がいいかな。グローブある? キャッチボールしようよ」  意図したものか、また他愛のない話をしようとする鈴野に逆らわず、合わせることにした。  勉強になったと、素直に感心しておくべきなのだろう。自分と異なる人間から異なる考えを得て考えを改める。自然なことだ。  なんとなく、風香が僕に、鈴野凛を残していった理由がわかった気がした。 「いやあ、助かったよ。今度、ジュースおごるね」  駅に着くなり、彼女は言った。 「なんでもジュースで解決しようとしてない?」 「ばれた? じゃあごはんで」 「高級なランチ、探しておくよ」 「オッケー、任せたからねー。それじゃ、ばいばい」 「うん」  複雑な気分だった。正直このまま別れてしまうことに少し抵抗があったけれど、引きとめる理由が見当たらなかった。 「ねえ、樹」  名前を呼ばれて、振り返る。胸の中にざわめきが起こる。僕は傘を持っていない右手をポケットに入れた。 「なに?」 「ありがと、ね」  感謝される理由に、心当たりはあった。その中で、一番違うだろうという予想を口にすることにした。 「次は、天気予報をちゃんと見るんだね」  自分が感謝する理由に、鈴野自身も見当がついていないのだろうか。それ以上付け加えることもせず、彼女は、困ったような顔でまた「ありがとう」と言った。 「はいはい」 「彼女にも、そうなんでしょ?」 「は?」  嘘みたいに間抜けな声を漏らしてしまう。何が何だかわからずにいると、彼女はくすくすと、意地の悪い老婆のように笑った。 「あははっ、動揺してる」 「いや……あのさ、僕彼女がいるなんて言ったっけ?」 「ううん。え、いるの?」 「いないよ。いるわけもない」 「そっかー、いや、カマかけてみたんだけど。いないんじゃ意味なかったね。いやでも、いないってことは吐き出せたからやりとりに意味はあったのかな」    えらく饒舌なものだから、段々と僕は腹が立ってきた。恩を仇で返された気分だった。 「帰る」 「わー! ごめんって!」 「ランチ、とびきり高いのにしてやるから」  復讐の宣言だったのに、少しの沈黙の後 彼女は楽しそうに笑って頷いた。そのあと、ようやく僕たちは別れた。  帰る途中、僕はこらえきれず、目撃したことを話してしまったのを後悔した。雨に濡れ、束の間幻想的になる、本来平凡で面白味のない街並みを、見えない線に沿うように眺めながら、重たい体を引きずるようにして歩いた。   そういば、昼間はカラオケに行っていたんだっけ。  疲れ切った頭の中、おぼろげに、思い出していた。

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