「私って生まれも育ちも東京で、一度も東京から出たことがないのに、どうしても巨人もヤクルトも好きになれないんだよね」 薄らとした白光色のライトに照らされて不気味に映る聖徳記念絵画館を通り過ぎて、シーズン中の盛り上がりがフィクションみたいに思える真っ暗な神宮球場が見えるあたりで、優璃がボソリと言った。 「それは、巨人もヤクルトも強いから?」 しかし、優璃は「いいや」首を横に振った。 「こう言ってしまうのは失礼だけど、お世辞にもヤクルトは強くない時代の方が長いよ。対して巨人は憎いくらい強いし有名だけどね」 「じゃあ、どうして?」 たしかに優璃は正体を隠す意味もあるが、外へ出るといつも中日ドラゴンズのキャップを被っている。キャップを被ることは理解していたが、どうしてそれが中日ドラゴンズのロゴが入った物だったのか、僕は今まで聞く機会もなく、理由を知ろうとは思わなかったのだ。 「洸はたしか、巨人が好きなんだっけ?」 「まあ、僕自身はあまり熱心ではないけれど、お父さんが昔から熱狂的な巨人ファンだったこともあって、小さい頃はよく東京ドームに連れて行ってもらったんだ。試合内容とか一切覚えていないけど、結構楽しかったって記憶だけはあるんだ。だから今でも巨人ファンってことにしている」 「つまり、素敵な過去を忘れたくないから、洸も巨人ファンってこと?」 優璃に言われて、僕は改めてそれが事実であることを認識する。きっと僕の心の中には、お父さんと出かけた東京ドームでの思い出が、瓶に入ったジャムみたいにギュウギュウに詰まっているのだろう。だから僕は今でも巨人を気にかけているのかもしれない。 「まあ、そういうことになるのかな」 「でも巨人が好きな人って、石を投げれば坊主に当たる、ってことわざが使えるくらいたくさんいるよね。私のマネージャーも大好きだし、私の同級生にも何人も巨人ファンがいたよ」 「やっぱり強いからみんな好きになるのかな。お父さんも確かそんな理由だったよ」 「それもそうだし、巨人には華があるんだよね。少なくとも、中日よりは絶対にあるよ」 「たしかに、有名な選手はたくさんいるかもしれないね」 しばらく歩き続けると、誰も座っていない木製のベンチを見つけた。優璃が「座ろうよ」と言って腰をかける。僕も疲労感でぐったりとしている足を休めるために、優璃の隣に座った。 「はあ、疲れたね。楽しかったけど」 「うん。CD屋さんにも行くことができたし、それに落書きを見つけた優璃の目は最高に輝いていたよ。収穫はあったんじゃない?」 僕が言うと、優璃は満足そうな顔をした。 「それは言えているね。カフェで歌詞も浮かんできたから、やっぱり渋谷って私にとって特別な場所だなって思った。それに、洸と相合い傘もしちゃった」 珍しく優璃が女の子っぽいことを言うので、僕はまたも心臓を摘まれたような気持ちになる。 「あれは良いシュミレーションだったよ。協力してくれてありがとう、洸」 でも、やっぱり優璃は職業病から抜け出せずにいて、僕は小さく、「そうだね」としか答えられなかった。 渋谷で見た薄気味悪い曇り空は、すでに真っ黒に染められている。夜になると空の違いなんて僕にはわからなかった。星があるかないか、月が見えるか見えないか、見えた場合に丸いか欠けているか、それくらいだろうか。僕にとってはっきりしない空の下で、ぼうぼうとした電灯に照らされるベンチは、僕ら以外の人間をシルエットにして、まるで二人だけの世界なんじゃないかと錯覚させた。 「それで、さっきの野球の話に戻るけど、ヤクルトはつば九郎は可愛いんだけどね。それ以外はパッとしないの」 「つば九郎って、あの燕のマスコットキャラクターのこと?」 「そうそう。性格は悪いけど、愛嬌があってかわいいよ。まあ、私はそこまで好きじゃないけど」 「まるで表向きは可愛いけど、裏では腹黒いって感じ?」 「まあ似たようなものかな。つば九郎を見るとさ、私の中にある古い記憶がフワッと蘇ってくるの。小学生のとき私のクラスにそんな感じの性格をした子がいたのよ。顔はとびきり可愛いけど、性格はとびきり残念な子。あれはもったいなかったな」 「上辺だけ真っ白にして綺麗に見せて、でも中身は黒く燻んでいる。そんな人間がこの世には少なからずいるよ。そして、そういう人間が社会では必要とされている」 「不思議だよね」 ここは東京の中心地のはずだが、随分と静かだった。いつもはもう少し騒がしさがあったりするが、この時期は野球もやっていないからか、余計に街に活気がない。僕らはそこで、人間を交えた野球の話をしている。
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