「こうやってじわじわって距離を縮めていくことが恋愛の醍醐味じゃないかって私は思うんだ。その過程にあるドキドキ感とかワクワク感を想像して、一つ一つ情景を思い浮かべながら歌詞にして描くことが楽しいの。そこにメロディがついて、歌になって人前で演奏される。そうすることで、私はたくさんの恋愛を疑似体験する。それが私の人生に箔をつけているんだ」 「なるほどね」 僕は優璃が崇めるぼんやりとした恋愛のきっかけにうなずきながら、しかし芯までは理解できないまま、苦いコーヒーに口をつけて心を落ち着かせた。 優璃のテーブルの上には、赤い表紙をしたポケットサイズのメモ帳が置かれている。優璃は常にこれを持ち歩いていて、何か思いつけば箇条書きでアイデアを記していく。 「雨の日の傘、スクランブル交差点、そしてカフェとコーヒー。やっぱり、渋谷は『恋』を生むには最高のシチュエーションだよね」 優璃はロフトで買った黒色のペンを持ち、時折そのペンのノック部分を唇に当てながら文字を書いていく。僕は向かい側で想像力を働かせている優璃を眺めながら、ぬるくなった苦いコーヒーを口に入れた。もしかしたら、こんな日常も彼女に言わせれば「恋」だとか「愛」で言い換えてしまって、さぞ素晴らしい歌詞を生み出してくれるのかもしれない。それは理想的で純白な世界。 僕たちにも、そんな甘い世界があればいいのに。 「どうしたの?」 優璃はサングラスを外して僕に目を合わせてくる。黒い瞳が大きい優璃の目が覗き込んでくると、僕のあらゆる感情を揺らし、ドキッとさせてしまう。 「いや、優璃はいつも熱心だなって思ってさ」 僕は優璃が書いたメモ用紙を覗き込んだ。丸み帯びた文字が簡潔な量で羅列されている。 「私はこの仕事が好きだからね。いつだって情熱を注ぐことができるの」 優璃はカフェラテを飲み干して、窓の外に映る行き交う人々を眺めていた。僕らが座る位置から見えるスクランブル交差点は、今日も忙しない人間たちを集約させている。夢に追われ、仕事に迫られ、現実に付き纏われて、それでも彼らは今日もこの街を横断していく。欲望を満たすために、優璃が生み出す歌詞のような恋愛をするために。 だけど、僕はその波には置いていかれている。僕は一人、冷たい雨に打たれながら取り残されている。水面の上に立たされて、全てのさざめきに耳を澄ませながら、自分の居場所を疑義するだけの人生を送っているのだ。 僕以外のほぼ全ての人間にはきっと優璃の歌詞が届いているはずだ。優璃は僕と縁がない世界の人々から絶大な支持を得ている。そのことは僕だって十分承知している。故に、僕の耳に優璃の歌声が届かないことも理解している。 「洸、コーヒー冷めないうちに飲んでね」 優璃は再びペンを握り、自分の世界を描き続ける。僕がいない世界を描き続けることで、彼女は幸せになる。 「そうだね、ありがとう」 優璃は僕の気持ちを唄うことができない。本当は唄ってほしいけど、期待するだけ無駄だと自分に言い聞かせて、僕はいつの間にかそこら中に広がっていた水面に写った自分の哀愁漂う表情を見つめる。それが現状の自分であって、足が沈んでいくのに動けない自分を憂いながらコーヒーを飲み干した。
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