ラブソングで描けない僕ら
Track2「恋と傘と缶コーヒー」 4

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 カフェで一息ついたあと、僕たちは喧騒としつつ華やかでエネルギッシュな渋谷の街を散策した。だけど特にこれといった目的はなく、ただ二人でぶらぶらと渋谷の街を歩くだけだった。  優璃が目についたお店があれば入って、二人してお洒落な内装に圧倒されて、優璃は可愛い小物を見つけては買おうか悩んで、僕がつい「買ってあげるよ」と強がって提案するが、「いいよ、悪いから」と呆気なく断られて、結局買わずに出てくる。そんなことの繰り返しだった。本来の目的であるCDショップに来ることができた優璃にとっては、もはやそれ以外のことに興味がないらしい。それでも、せっかく来たから渋谷の空気をたくさん吸っていたいから、僕らはここに留まって渋谷を練り歩いている。  本日の天気は曇りのち雨だ。気温は肌寒さを感じるからきっと低いのだろう。先ほどから降り出した、しとしと降る雨のせいで、僕たちは並列になってそれぞれ折りたたみ傘をさし、青白く染められた渋谷を周っている。 「都会は人も多いし、おまけに途中から雨も降り出すから道も狭くなるし。生き抜くのが大変だよね」  僕は傘をさした人々たちが蠢く東京の街を憂いた。 「たしかに上から見る傘は彩りがあって好きだけど、実際さして歩くのは面倒だよね」 「風景ってものは、上から見るから綺麗なのかもしれないね」  僕はなんとなく言ったが、優璃は僕の言葉に首を傾げた。 「いや、それはどうだろうね」  優璃が上着のポケットからニョロっと入れていた左手を伸ばして、前方を指した。そこにあったのはコンクリートの壁。よく見ると、ペンキやスプレーで落書きがされている。しかし、バンクシーほどの芸術性はなかったので、僕にはそれが汚れているようにしか見えなかった。よくある、東京の穢い部分だと感じた。 「あれを見ればわかるけど、地上にも数知れないアートがあるの。これも、出会いのきっかけになるかもしれないよ」 「え、落書きで?」  僕は思わず聞き返してしまった。鼠色の壁に水色で『kill』と大きく書かれた落書きからは、とても出会いなど与えてくれそうになかった。しかし、優璃にはそれが恋愛を彩るアートに思えるらしく、近づいてその文字をじっと見つめている。僕も隣でまじまじとその文字を見る。 「たとえ恋愛じゃなくてもさ、こういう落書きって価値があると思うよ」 「そういうものかね」  僕は優璃の不思議な価値観に、ただうなずくことしかできなかった。 「これを描いた人は、一体どういう気持ちで描いたんだろうね」  水色で丸み帯びた字をしている『kill』。やはり僕には、その言葉が人を傷つける刃にしか見えない。 「ただの悪ふざけだとしたら、これを書いた人は何も考えていないように思うけど」  しかし、優璃は「洸は硬いね」と僕に言って笑った。これは彼女の口癖だった。僕はよく、優璃から「硬い」と言われている。優璃曰く、僕には発想力や創造力がないらしい。 「殺す、としか書かれていない落書き。一見何も考えていないように思えても、これを描いた人は、もしかしたらものすごく怒っていたのかもしれない。描いた人が誰かを憎み、そして殺してやりたいとすら思ってしまった。でも、誰かを傷つけるわけにはいかなかった。その勇気がなかった。だから、この人は自分から湧き上がってきた怒りをアートにしてみせた。全身全霊怒りを込めて、壁に『kill』って書いたんじゃないかな。魂をぶつけたんだよ、壁に」 「それは、考えすぎじゃない?」   僕は優璃の奇想天外な発想についていけず、苦笑するしかなかった。だけど優璃は意外にも真剣な顔をして、また口を開けた。 「でも、もしこれを描いた人がここに何も描かなかったら、やるせない気持ちを抱えて怒りに満ちた心のまま、もしかしたらあの世へと旅立っていたかもしれない。または、誰かを傷つけていたかもしれない」 「つまり、逃げ道はこの壁にしかなかったということ?」 「そういうことになるね」  優璃はようやく理解してもらえたと、僕を見つめる。 「描くことでスッキリする。形は違えど、この作者は私と同じだと思うんだよ」 「優璃と同じ、か」 「うん。私は怒りを歌詞にすることは多くないけれど、描く行為で何かを表現すると、すごく清々しい気分になるの。心にある本当の自分をさらけ出すことが、私やこの作者にとって救いなんだと思う。もし、これを描いた人がこの文字を壁に描くことで気分が晴れているなら、それはそれで良いんじゃないかって私は思っちゃう。もちろん、落書きは犯罪だからいけないことなんだけどね」  優璃は再び左手をポケットにしまって、傘の中からチラッと僕の目を見た。 「そろそろ帰ろうか、洸」  思いがけない心震わせるアートに出会えて満足したのか、優璃が踵を返して駅の方に歩いていった。僕はもう 一度だけその文字を見てから、水たまりを避けながら優璃の後を追った。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません