信号の色が青に変わると、僕たちは渋谷で有名な場所の一つであるスクランブル交差点をまっすぐに進んだ。やはり向こう側にいた若者たちは、急ぎ足でこちらに向かってきて僕らとすれ違い、駅の方へと駆けていった。 僕は彼らのような忙しい人生とは無縁だった。 一日の中に細かくスケジュールがあって、それを遂行するために必死に行動するような人生を、僕はこれっぽっちも経験したことがなかった。 だから彼らのような忙しい人を見ると、僕はいつでも不思議でたまらなくなるのだった。どうして彼らにはゆとりが生まれないのだろうか。僕はそうやって彼らを一種の敵のように扱って、違う人種と決めつけてしまうところがあった。それが世間体を否定することくらい知っているはずなのに、この社会へ一歩踏み込むことに躊躇いがあって、結果として彼らのような存在を畏怖しながら生きることしかできなかった。 やがて長い交差点を渡り切り、TSUTAYAが入っているビルに向かって右に曲がり、小さな横断歩道の手前を左に曲がると、目的地であるTSUTAYAの入り口が見えてくる。実は反対側にも入り口はあるらしいが、おそらくこちらが正面入り口なのだろう。 エントランスの壁には、そこかしこに様々なアーティストの新曲プロモーションと思われるポスターがあり、それが支柱にまで貼られていた。 「色々なアーティストのポスターが貼ってあるね。あれは、ジーノイズって書いてあるのかな?」 僕が指差したのは、いかにもヴィジュアル系な男が四人写った写真だった。 「そうだね。少し前にブレイクした声優さんたちだったかな。今でも人気があるみたいだけど」 「それにしても、たくさん貼ってあるんだね」 僕がさまざまなポスターに目線を動かしているなかで、隣にいる優璃は宝石の如くキラキラと目を輝かせていた。 「そう。この感覚だよ。いつ来てもワクワクするのよ、この場所は!」 「優璃は音楽が大好きだからね」 「うん! この世で一番好き。音楽は私の生きる全てだから」 優璃は子供のようなはしゃぎっぷりで、彼女が醸し出すワクワク感が僕にまで伝ってきた。時折、僕らは渋谷ではないが二人でCDショップに行くことがある。いつもは大人びた雰囲気のある優璃だが、CDショップに来ると途端にテンションが上がってしまう。特に渋谷のTSUTAYAはポップアップも豪華だから、たしかにワクワクさせてくれる場所ではあった。 「つまり、ここが優璃の刺激的な場所ってわけだね」 「そう。この場所はいつだって私に音楽というエネルギーを注入してくれる。そして私に輝きを取り戻させてくれるんだ。ここはそういう場所だよ」 「なるほどね」 入り口付近には、ポスターの写真を撮っている人や、CDを買い求めてきた人たちでごった返している。冬物を身に纏っているのにもかかわらず、僕は彼らが生み出す熱気のせいで少し汗をかいていた。店の中はもっと音楽に対する情熱に満ちているだろう。ただ、僕はこの環境が嫌いではなかった。普段は人混みを避けて生きている僕が、CDショップは抵抗がない理由。それはきっと、僕の側で今にも駆け出しそうな彼女がいるからに違いない。 「そろそろ入ろうか」 優璃は胸に手を当てて、わざとらしく息を吐いた。 「ふう、緊張するね」 「いやいや、何も緊張することはないでしょう。それに、今日の優璃はお客様なんだ。決してプレイヤーじゃないから、心配することはないよ」 そう。今日の優璃はあくまでも客なのだ。僕は心の中の自分にも言い聞かせる。 「そうだよね。あ、一応サングラスかけておかないと」 優璃が真っ黒なサングラスを装着して、ついでに帽子を深く被って、「どう?」と僕に見せてくる。隠れ身の姿もなかなかお似合いだった。 「良いと思うよ。それなら、優璃だって絶対にバレないよ」 「よし。じゃあ、行っちゃいましょうか」
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