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   なんとか山手線のホームに上がることができる階段を見つけた僕は、人の迷惑にならないように隅から上がって狭いホームに到着した。 「ねえ、とりあえず山手線のホームに着いたよ。どの辺りにいればいい?」  すると相手からは「一番にいて」とだけ言われて、そこで電話が切れてしまった。僕は携帯の画面を見つめて、いぶかる。 「一番?」  僕は思わず独り言を口にしてしまう。一番といえば、一番前か一番後ろだろうか。いや、一番ホームのことだろうか。僕が電話をした相手は、物事をはっきりと言わないことが多かった。だから僕は時々こうやって振り回されてしまうのだ。  立ち止まっていた僕は、とりあえず右に歩いてみることにした。  ホームの表示案内は四から三、二、一と数字が減っていく。やがて一番が近づいて足を止め、乗り降り口から少し離れたところでふうっと小さく息をつく。  休日だからか、ラッシュ時ではない昼下がりでも人が多かった。さすがは都心を網羅する山手線だけある。若者から中年、老夫婦まで、僕の周りにはバランスよく人間がいて、みんなが同じ電車の到着を待ちわびている。トントントントン、小刻みに地面を叩く足音。僕の前にいるおじさんはせっかちだった。隣にいるサラリーマンもため息を吐き、近くにいた女学生は退屈そうに携帯を眺めている。誰もが早く目的地へ着きたいと願っている状況を、僕はほとんど理解できなかった。彼らはいつから時間に追われる存在に変化したのだろうか。それとも、彼らを取り巻く社会が無言のプレッシャーをかけ続けているのだろうか。    再び携帯を開くと、相手から『今そっちに向かってるから』とだけメッセージが入っていた。僕は相手が来るまでの間をニュースサイトを見て潰すことにした。放火殺陣、猥褻、窃盗、飲酒運転。今日も暗い話題がずらりと並ぶ。そうかと思えば、結婚、勝利、受賞といった明るいニュースも、広い荒野に咲いた花のように僅かながら載っている。幸も不幸も、この世はいつも誰かが何かを起こすことで生まれる産物である。それは僕を含めた他人にとってどうでもいいことばかりだが、たまに関係ある話を見つけたりすると、胸の奥がギュッと掴まれた気持ちになる。 『新曲発表!』 「おはよう」  その記事を読み進めようとしたとき、僕の後ろから若干低ボイスで歳のわりに大人びた女性の声が聞こえた。その声は僕が今一番会うべき人の声だった。ゆっくり振り返ると、中日ドラゴンズのロゴが入っている年季が入ったキャップ帽を被った相手が、場を気にすることなく突然大きな拍手をし始めた。そのせいで周りの人々がチラチラこちらを見ている。僕らは完全に異物になったが、それすら彼女にとっては心地良く感じるのかもしれない。 「よく着きました。すごいね、洸」  彼女は必要以上に僕を称えた。だけど僕をおちょくっていることくらい、すぐにわかる。 「こんなところで拍手はやめてくれないかな。恥ずかしい」  しかし、彼女は「いや、喝采だね」と僕に言った。 「それに、道に迷っておいて恥ずかしいなんて言える立場じゃないよ。やっぱり、洸は拍手されるべき逸材だよ」 「いやいや」  僕は反論する。 「こんな広い駅で、しかも閉鎖空間の中を迷わないほうが難しいよ。こんな魔境、誰だって困惑するに決まっているね」  だけど彼女は僕を馬鹿にするように、だけどほどよく優しさも交えて笑っていた。 「そんなことないよ。大体の人は目的地にたどり着くだろうし、それに東京駅は二人で何度か使ったこともあるから、銀の鈴がある場所くらい覚えていると思ったんだけどね。洸の方向音痴はいつまで経っても変わらないね」 「そんなこと」  しかし僕の僅かな抵抗も虚しく、ゴォォっと大きな音を立てて来る山手線にかき消されてしまった。 「乗るよ」 「え、乗るの?」 「うん」  僕はこれからどこへ行くのか聞かされていなかった。東京駅周辺を散歩すると予想していたが、どうやら目的地は別らしい。 「目的地って、東京駅じゃないの?」 「うん。東京駅はおまけ。本当はもっと刺激的な場所に行きたいの」 「刺激的な場所?」 「そう。私にとって刺激的で大切な場所。洸だって知っているはずだよ」  何人かが降り、サラリーマンやおじさん、退屈そうな女学生が乗った後、僕たちもその電車に乗った。その乗り物は空調から温かい風が放出されているらしく、全体的にモワッとした空間が生まれていた。 「実は洸が少しは成長したかなと思って、今日はわざと東京駅に集合をかけたの」 「そんな理由で僕を魔境に閉じ込めたんだ」  僕は彼女の奇想天外な発想に呆れて苦笑する。 「少しでも方向音痴が治ったかなと期待したんだけど、ダメだったね」 「期待を裏切って悪かったよ。ただ、僕が東京に馴れるまでは、後何年も先だろうね。それまでは期待しないほうがいい」 「怒ってる?」 「別に。優璃が常に奇妙だけど面白いことを考えている人間だってことくらい、僕はずっと前から知っているから」 「そう、ならよかった」  彼女の薄い笑みとともに発車のベルが鳴り、ドアが自動で閉まる。僕らのを乗せた山手線外回りは、時間通りに何事もなく東京駅から発車した。

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