そんな過去のことをぼんやりと思い出しているうちに、僕らを乗せた電車は渋谷駅に到着した。黒いジャケットを着たギターケースを背負う男の後ろに続いて僕らは下車した。 「さあ、ここで洸に問題です。どこの改札から降りれば、私の目的地に近いところへ行けるでしょうか?」 電車を降りると、すぐに優璃は僕に質問した。 「いや、分からないな」 僕がそう答えてから優璃の口元を見ると、僕を弄ぶようにニヤリと笑みを浮かべている。きっと僕のことを小馬鹿にしているのだろう。ただ、僕はそんな彼女にはもう慣れっこだった。 「しょうがないね。じゃあ、ヒントをあげるよ。ヒントは私の好きなこと、そしてこれから行くところは、それに因んだ場所だよ。これでわかる?」 「優璃の好きなこと?」 「そう」 優璃の好きなこと。そう言われると、たった一つしか思い浮かばなかった。 「それって、もしかして音楽?」 「ピンポーン」 優璃が親指でグッドサインを出す。 「つまり、CD屋さんってこと?」 「その通り。だいぶ私のことがわかってきたね」 「そりゃあ、二年も一緒にいればわかるよ」 しかし、僕にとっては渋谷だって魔境だった。改札口はいくつもあり、右にも左にも人は流れていく。 「なんとなく場所は分かったけれど、それがどこの改札かまでは分からないな。実際、僕は一人で渋谷に来たことがないんだ」 「何度か私と行ったことがあるんだけどね。まあいいや、はぐれないように付いてきて」 優璃に促されて、僕は彼女の後ろにくっついてホームの隅の方を歩く。やがて階段が見えてきて、それを降りるとすぐに左斜め前方に改札が見えてきた。 「ハチ公前改札。来たことあるでしょう?」 僕もその情景を見て思い出した。そういえば前にもここの改札を通ったことがあった。 「ああ、たしかに通ったね。今思い出したよ」 「そうでしょう。前にもこの会話をした気がするけど、洸は忘れん坊さんだからね。覚えていないかな」 その改札を抜けると、すぐに待合広場のようなスペースがあった。左側には何かの記念なのか知らないが、レトロな電車の模型が置かれていた。 「ほら、あれ覚えている?」 優璃は観光客と思われる外国人たちが集る犬の銅像を指差す。 「ああ、ハチ公だね。そういえば前に来たときには、二人で写真を撮った記憶があるよ」 「そうね。でも、今日私の行きたいのはこっち」 僕は優璃がハチ公と反対側の方面を指すのでそちらを見ると、TSUTAYAの入った建物が堂々と渋谷の街を見下ろしていた。 「渋谷のTSUTAYAか。たしか七階まであるんだよね」 「そうそう。でも、私は一階と二階しか行かないけどね」 「そうなんだ」 まるで門番のようなその建物に、僕は東京の怖さみたいなものを感じている。きっと二年近くたった今も、僕はまだこの街に慣れていないのだろう。若者を多く集める渋谷に馴染めていない僕と、渋谷さえ庭のように感じている優璃。その壁は僕らの関係を表しているようで嫌になる。乗り越えるか、あるいは壊すか。 「僕の知ってるTSUTAYAはこじんまりとしていたからさ、このTSUTAYAはもはや別物に感じるよ。やっぱり、東京は僕にとって未知数で僕の幼稚な精神をごっそり抉りとってくれる。良い意味でも、悪い意味でも」 僕の地元にあったTSUTAYAは中古のDVDを借りるためにあったようなもので、お洒落さなど皆無だった。実用的であれば何ら問題がない世界でしか生きてこなかった僕のそばには、優雅でモダンなTSUTAYAに馴染む優璃が いる。 「渋谷のTSUTAYAは日本で一番でかいんじゃないかな。まあそんなことはともかく、行こう」 「うん、そうだね」 数多の若者や外国人観光客をかき分けて、僕らは信号の前に立った。向こう側には、カラフルな格好をした若者たちが前のめりになって信号が青になるのを待っている。彼らはきっと、他の目的地へと向かうために急いでいるのだろう。やはり、東京は忙しない。 「私ね、初心に帰りたくなると渋谷に来るの。ここに来ると、若い頃もがいていた自分を思い出して、本心から渇望するように音楽をやりたいって気持ちが奮って、また頑張ろうと思えるの」 優璃がそう遠くない過去の話をしながら、子供の頃を思い出すようにノスタルジックな表情をする。僕はそんな優璃の艶やかな肌を見て軽くツッコミを入れる。 「若いときってまだ二十六歳だし、今も十分に若いでしょう」 「いやいや、私も随分と年季が入ってきたよ。十代の頃は今よりもっと若かったんだから」 「優璃は十代の頃から今みたいに大人びているのかと思っていたけど、違うの?」 優璃は「全然だよ」と手を横に振った。 「そんなことないの。私にだって立派なJK時代はあった。あのときは今よりももっと弾けてて、女の子らしくて、感覚も若くて、おまけに肌だってピチピチしてたんだから」 「ピチピチ、ねえ」 「そうそう。今みたいに化粧水でどうにかしようって考えることもなかったよ。若いって魅力的だよね。もう、一生得られることがない水々しさを思い出すと、ちょっぴり寂しくなるんだ」 「それだけ若い頃に青春していたんだね」 「そうだね。音楽も始めたばかりで、色々と迷っていたけど楽しい時代だったかな」 優璃がピースサインをしながら友人たちと笑顔でプリクラを撮っている絵面や、教室の隅でギターを弾く様子を、僕の想像力では描くことができなかった。しかし、間違いなく優璃にも間違いなくそんな過去があったという。 過去の優璃は、今よりもっと純粋だったのだろうか。
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