「随分と寒くなってきたね」 あたりは電光で照らされて、しかし夜にかけて一層賑やかになる不可思議な街へと変貌しつつあった。その中で、優璃は傘を持っていない方の手をポケットから出して身体をさすった。 「優璃の格好、寒そうだけど大丈夫?」 今日の優璃の格好は、とてもこの冬空には似合わない夏の終わり頃をイメージさせる服装だった。だけど優璃は決して僕に隙をみせたりしない。 「大丈夫。私、寒いの好きだから」 「寒いのが好きって、そんなわけないでしょう」 僕は優璃のつよがりを苦笑したが、優璃は真面目な顔をして言った。 「そう? 寒いといった身体的な経験は、一般的にはマイナスなイメージがあるけど、考えようによっては恋を生んだり発展させるにはもってこいのシチュエーションだって私は思うんだ」 「それは随分とポジティブな考え方だね」 優璃は左斜め前方にポツンとあった、一台の寂しそうな自動販売機を見て立ち止まった。おぼろげな光が渋谷を照らしている様は、どこか僕を安心させた。 「ねえ、こんなとき、私たちの距離を縮めるものってなんだと思う?」 優璃の視線の先には、弱々しい光を放つ自動販売機しかない。だから想像力のない僕でもそれを指差した。 「もしかして、あの自動販売機?」 「そう。あったかい飲み物、飲もうか」 「うん」 優璃が吸い寄せられるように近づいていくので、僕もそれに続いた。 「僕が買うよ。さっきもコーヒーご馳走になっちゃったからさ」 しかし、優璃は頑なに首を振る。 「大丈夫。今日は全部私が買うって決めているからさ」 「そんな決め事したっけ?」 「今日は洸をわざわざ渋谷まで引っ張り出して来ちゃったから、そのお礼というか、お詫びだね」 「そんなこと、別に気にしなくていいのに」 たしかに、男だから奢るといった決まりごとはない。でも、僕にも奢らせてほしい気持ちが心のどこかに存在する。なんでだろう、と不思議に思う。普段はあまり使いたくないお金も、優璃には自然と使ってあげたくなるのだ。 だが、優璃にはそんな気遣いは必要ないみたいだ。僕がぼんやりとそんなことを考えているうちに、優璃は二本目の缶コーヒーを下から取り出していた。 「はい。これ」 僕は大体ブラックで、優璃はカフェオレだ。僕は甘いのが苦手だから、なるべく苦めなブラックを飲むことが多い。逆に優璃は苦いものが嫌だと言って、コーヒーはほとんど飲まない。カフェに入っても、カフェオレやカフェラテみたいな、ちょっと白っぽくて甘い飲み物を注文する。 「ありがとう。じゃあ、いただくよ」 「どうぞ」 僕は熱いくらいの缶コーヒーをいただく。喉から胃にかけて熱が帯びて、身体が温まっていく。時折刺すような冷たい風が吹くから、こういう温かい飲み物が余計に美味しく感じる。 「洸って、ブラック好きだよね」 優璃はカフェオレの入った缶を袖で覆って持ちながら暖を取っている。やはり寒かったんだなと、僕はこの雨を恨んだりする。 「甘いのが嫌だから、必然的にブラックになっちゃうんだよね」 「私は苦いのは嫌だな。それは恋も一緒だけどね」 優璃はいつも「恋」とか「愛」に変換する癖があった。どうやらこの缶コーヒーにもそれが当てはまるようだ。 「恋は甘いほうが良いって優璃は思うんだね」 僕が言うと、優璃は「もちろん」と深くうなずいた。 「失恋ソングは、ズキズキって胸が痛むの。歌詞を書いていると、まるで自分のことのように傷ついちゃうから好きじゃないの。胸が苦しくなる感覚が嫌なんだよね、私は」 「でも、失恋ソングは需要があるんでしょう?」 「うん。その通り」 優璃は傘の柄を脇で挟んで、ようやくプルタブを引いてカパッと音を立てて缶を開ける。そして、手の冷たさでぬるくなってしまったはずのそれに、何度も息をかけて冷ましてから口にした。 「甘い。このカフェオレ」 「加糖だね、それ」 「私、微糖の方が好きなのに」 優璃はちょっと残念そうにするが、それを一気に飲み干して無造作にゴミ箱へと捨てた。 「失恋はみんなが通る道。だから需要があるの」 「たしかにそうだね」 「失恋したときは、みんな苦い思いを抱えて感傷に浸ったりするんだけど、時が経てばやがて良い思い出になったりする。そうやって前向きに考えながら、私は失恋ソングを描くことにしているの」 しかし、優璃の本心はどこか別の方向を向いている。僕にはそれがわかる。優璃は納得しないとすぐに浮かない顔をするからだ。 「それでも、優璃はできれば失恋を描きたくない。できれば、ハッピーエンドに酔いしれていたい」 僕は優璃の心を覗いて言った。優璃は僕をまじまじと見て、「その通り」と返す。 「良い勘してるね」 「まあ、それくらいわかるよ」 「そろそろ歩こうか」 優璃は再び駅の方向へ足を向ける。 「うん」
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