ゴールデン・ドロップ/中編小説集
#2.ゴールデン・ドロップ【2】

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【2】  わたしはその頃、妻と離婚の危機にあって、半分魂が抜けたような毎日を過ごしていた。  わたしは仕事柄日本各地を転勤し、気が付けば単身赴任生活は十五年を数えていた。  十年ほど前に自宅を新築したが、わたしはその家で満足に暮らしたことがなかった。  妻は家を持ってすぐに、自宅で英語教室を始めた。  それから三年ほどは、妻の方もわたしの赴任地までやってきては、なにくれと身の回りの世話を焼いてくれていたが、教室が軌道に乗って忙しくなってからは、とんとご無沙汰になり、もっぱらわたしが月に一度か二度、家に戻るばかりだった。  だからこの十数年、妻とは盆正月の休暇を含めても、年に二十日ほどしか顔を合わせない年月が流れていた。  昨年の秋、一人娘が嫁いでいった。同居していた娘が片付き、女独り所帯になる妻の身をわたしは案じた。  妻の英語教室も生徒が減って潮時のようだったので、「教室は畳んで、定年までの二年間こっちのアパートで一緒に生活しないか」とわたしが提案すると、妻はそれを拒否した。  のみならず、「今すぐにとは言わないが、あなたが定年になるまでには離婚して欲しい」と、驚天動地なことを言い出した。  妻の思いがけない反応にわたしは、ただただ呆然とするばかりだった。  妻の申し出に対して、最初は呆気に取られるばかりで、怒りや悲しみという感情はまるで湧かなかった。  それに、妻の言動を〈一時の気の迷いだろう。更年期障害の一種かもしれない〉などと高を括っていた。  しかし、その年の年末年始休暇の際に帰宅したとき、自分のその甘い考えは完全に打ち砕かれた。  妻は話し合いを拒否した。  彼女は休暇の一週間、必要なこと以外は一切口をきかなかった。  取り付く島のない妻の態度にわたしは沈黙するしかなかった。  娘夫婦が年始の挨拶に来たときには、妻も婿殿の手前体面を繕い、わたしもそれに調子を合わせた。  わたしは、娘に妻から離婚を申し渡されたことを話すべきかどうか迷ったが、とても新婚の娘に話すことは出来なかった。  〈もしかして、母と娘の間ではもう話がついているのか?〉と勘ぐったりもしたが、娘のわたしに対する態度には変化がないように思われた。  それ以来わたしは、妻から言い渡された『離婚』という言葉が頭から離れず、仕事にも身が入らない日々を過ごしていた。  一時は閉鎖も検討されていた東北の小都市の営業所の再建のため、所長として配属されて三年間、わたしは死に物狂いで仕事をした。  ようやく業績も上向き、定年までの二年間は少しは楽が出来るかなと思っていた矢先の青天の霹靂に、わたしは少なからずショックを受けていた。  〈なぜだ! なぜだ!〉わたしは毎日自問自答していた。  わたしはこれまでの結婚生活を省みて、〈自分は良い夫ではなかったかもしれないが、悪い夫ではなかったはずだ。夫婦仲だってけっして悪くなかった〉と繰り返し思った。  そして、妻が離婚を決意した訳を色々と考えてみたが、ただひとつ、『彼女の浮気』という理由だけは頭に浮かばなかった。  わたしの頭のなかで、妻と浮気は到底結びつかないものだった。  片親だった妻は、その生い立ちから、浮気というものを心底憎んでいた。  わたしは結婚当初からそのことを知らされていたので、長い単身赴任生活のなかでも、これまでそのことは厳に慎んできた。  戒めを破りそうになることが何度かあったが、かろうじて耐えてきた。 〈それなのに、なぜだ! なぜだ!〉  わたしの頭の中は堂々巡りを続けていた。  仮面夫婦の沈黙の年越しを終えて仕事に戻り、傷心を抱えたまま得意先の年始廻りをしていたあの日、わたしは高梨さんと出会ったのだった――。

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