ゴールデン・ドロップ/中編小説集
#7.ゴールデン・ドロップ【7】

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【7】  その年の五月の最初の土曜日の午後遅く、わたしは妻と並んで高梨さんの店のカウンター席に座っていた――。  四月の下旬に不覚にも持病のぎっくり腰が再発し、ろくに立って歩くことも出来ない重症で一週間も仕事を休む破目になった。  身の回りのことも出来ない状態は如何いかんともしがたく、妻に電話をして救援を求めたのだった。  妻は不承不承ながらこちらにやってきて、四泊五日で世話をしてくれた。  幸い、わたしの症状も快方に向かい車の運転も出来るようになったので、その日、夕方の列車に乗って帰るという妻を駅まで車で送る途中、なんとか妻を説得して高梨さんの店に立ち寄ったのだった。  店に入り高梨さんに挨拶をした後、話すこともなく黙りこくって座っているふたりを見かねてか、高梨さんは驚くべき提案をした。 「片倉さん、今日は片倉さんがキッチンに入って、奥様にコーヒーを淹れて差し上げたらいかがですか?」  目を白黒させているわたしに向かって高梨さんはキッチンから笑顔で手招きした。  妻と雁首並べて押し黙っているのも決まりが悪かったし、せっかくの高梨さんの申し出を断るのも悪いと思ったので、わたしは意を決して立ち上がった。  キッチンで高梨さんは身に着けていた青いエプロンを外して、わたしに着けてくれた。  妻はわたしのエプロン姿を唖然とした表情で見つめていた。  高梨さんは、キッチンから出て「失礼します」と言って妻の隣に座った。  わたしは、これまでに何度も高梨さんの手さばきを注視していたので、フレンチプレスの淹れ方には密かに自信があった。  カウンターの高梨さんを前にしてかなり緊張したが、この店を最初に訪れたあの日のことを思い出しながら、高梨さんの口上を真似て説明を加えながら、心を込めて妻にコーヒーを淹れた。  わたしは、妻がコーヒーカップを手に取り、最初の一口を嚥下するまでの間、ずっと彼女の手元と口元を凝視していたはずだ。  妻は、敢えてわたしと視線を合わせようとはしなかったが、一口飲み終わったとき、溜息と共に「美味しい」という言葉を思わず漏らし、わたしは心のなかでガッツポーズを決めた。  「マスター、わたしにもダブルで淹れてくれませんか。カップはふたつで」  旨そうにコーヒーを味わう妻の姿を、微笑みながら眺めていた高梨さんが、わたしに向かって破顔した。  師匠に出すコーヒーを淹れるのは更に緊張したが、なんとか無事に心を込めたフレンチプレスを提供することが出来た。  高梨さんは、ガラスポットからコーヒーをふたつのカップに注いだ後、ひとつのカップをロッキングチェアまで持っていき、注意深くその座面に置いて小さく手を合わせた――。

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