広告の会社、作りました
2、いい仕事ってなんだろう(6)

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      ◇  会社が倒産したときもそうだったが、たった一日で運命が大きく反転してしまうことを、健一は知っている。  出勤時間は決まっているわけではないが、今朝も十時に家を出た。ラッシュアワーを過ぎた地下鉄の空席に腰かけ、"本格的なスタート"を理由に、ZEPを選曲する。I'm gonna give you my love! ロバート・アドントのハイトーンなボーカルが、眠気を吹き飛ばしてくれる。  家からだいたい三〇分くらいで、天津の事務所に到着した。いつもはすぐに作業部屋に向かうが、その日は竹川印刷の唐沢が、リビングの椅子に座っていた。 「おはようございます。唐沢さん、早いですね」 「おはよう。あのさ、遠山くんごめんね」 「はい? なんですか」  いきなり謝られたことに驚いてしまったが、唐沢は深刻な表情をしていた。 「KAKITAのコンペなんだけど……、竹川印刷は降りることになったんだ」 「え!?」  いきなり告げられた事実に、健一はどういうことかと混乱した。 「上からお達しがあってね」  唐沢は目を伏せながら言った。 「おそらく上が、伝信堂さんにやんわり伝えられて、忖度しているんだと思う。うちは伝信堂の印刷物も結構扱っているからね。一応、抵抗はしてみたんだけど、こればかりは何ともならなくて……」 「……そんな、いきなり」  と言ったきり、二の句を継げない健一に、天津が諭すように言った。 「KAKITAのプロジェクトチームは、伝信堂と結託してるんだよ。KAKITAはきっと、コンペというフェアな形を装って、結局は最初から、伝信堂に仕事を出すつもりなんじゃないかな」  天津の声は、健一を慰めているようでもあったし、冷たく言い放っているようでもあった。 「プレゼンには、伝信堂以外の会社が、一社でも参加表明すれば、中立性が保てるから。オリエンに顔を出した時点で、竹川印刷の役目は終わったんだ」  自分たちの役目は終わった……。  昨日、オリエンに参加して、みんなで飲み会をしたばかりだった。頑張ろうと、健一は思ったし、みんなも同じだと思っていた。今日は資料をまとめて、アイデアを出してみようと思っていたのに……。 「あの、コンペに出るのが、どうしてだめなんですか? 僕らを落とせば済むことじゃないですか」 「まあ、そうだけどね。逆に言えば、どうせ落ちるコンペなんだから、我々にご足労かけないように、っていう親切ともとれるよ」  天津は人ごとのように言った。 「だけど、昨日の今日でそんな……」 「まあ、遠山ちゃん、あんまり唐沢さんを困らせても、仕方がないでしょ」 「いや、本当、申し訳ないね」  頭を掻く唐沢は、力なく言った。 「プレ参加意志の締切は、もう少し先だから、それまでにもう一回、上にかけあってみるよ。でも、あまり期待しないでね」  立ちあがった唐沢は、それじゃあ、と言って事務所を出ていった。玄関のほうでボンゾが、んなあ、と鳴く。 「……唐沢さんはさ、遠山ちゃんに直接伝えて謝りたいからって、わざわざここで待っててくれたんだよ。別に唐沢さんが悪いわけじゃないのに」 「……はい。それは……わかってますけど」  唐沢が健一のことを気遣ってくれているのもわかるし、会社の都合というものもわかる。だけどこんな形で諦めなきゃならないなんて、健一にはまだ納得ができない。  もともと伝信堂にコンペで勝つなんて、難しいだろうと思っていた。だけどテントウムシがどこまで戦えるのか試してみたかった。天津となら内容では負けないプレゼンができる気がしていた。 「天津さん。竹川印刷がだめだったら、天津功明広告事務所として、参加できませんか?」  天津個人として参加するのだったら、きっと伝信堂ともKAKITAともしがらみがないし、いいんじゃないだろうか。竹川印刷よりさらに小さな規模になるが、相手の巨大さを考えれば誤差のようなものだ。 「それは無理だ」 「……どうしてですか?」 「KAKITAとの取引は、法人じゃないとできないから、そもそも無理なんだよ」 「……じゃあもう、どうしようもないってことですか?」  天津は黙ったまま立ちあがった。ガチで挑戦したいコンペがある、と彼は言っていたけど、もうすべて諦めてしまったのだろうか……。  ぱかり、と冷蔵庫を開けて取りだしたミネラルウォーターのうち一本を、天津が渡してきた。 「まあ、飲みなよ」  握ったボトルの、キャップを回した。握る力が入りすぎていたのか、開いた瞬間、手に水をこぼしてしまう。 「……あの、……こういうことって、よくあるんでしょうか」 「なくはない、かな。仕事だからね」  仕事だから、不条理なこともある――。こういうこともあると思って、諦めるしかない――。だけど自分が天津から学びたいのは、そういうことではなかった。 「……水島さんも、僕らと仕事がしたいって、言ってくれてたし」  昨日の別れ際、水島はそう言って泣いていた。だからやっぱり、他に何か方法があるならば……、と考え、同時に、そのときの彼女の複雑な表情を思いだしていく。 「……あの、もしかして」  健一はそれに思い至ってしまった。 「……水島さんは、このこと知ってたんでしょうか」 「まあ、知ってたでしょ」 「………」  目の前に断絶のシャッターが下ろされた気分だった。

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