◇ 名古屋駅の地下街で昼飯を済ませ、十三時きっかりに天津と一緒に受付に入った。 KAKITAが入っているこの高層ビルにやってきたのは、あのオリエン以来だった。あれからいろんな浮沈があったけれど、期間にすると実はまだ、一週間と少ししか経っていない。 事件や契機は突然訪れ、人生は思いがけない方向に転換する。 だけど舵を切るのが"自分"であれば、それを怖れすぎることはなかった。不安がってばかりいても事態は好転しないと、健一はもう知っている。 仕事も、人生も、これからの自分は、当事者と生きるのだ。 前回は巨大な会議室へ通されたが、今回は広報部内の、小さな応接室に案内された。しばらく待った後、応接室とオフィスを隔てる扉から、水島が顔を出した。 「お久しぶりです」 健一は笑顔で声をだしたが、水島は緊張した様子だった。てっきり相手は水島一人かと思っていたのだが、彼女の後ろに一人、役職の高そうな中年男性がいた。 「はじめまして。よろしくお願いします」 天津と健一が男性に挨拶をすると、「ああ、はいはい」と返ってきた。二人は今日の午前中に作った、刷りたての即席名刺を差しだす。 交換したその名刺によると、彼が水島の上司に当たる広報部長だった。オリエンのときには多分、伝信堂社員の周りにいたのだろう。 「はい、じゃあお座りください」 「失礼します」 絶対に笑ってはいけないのだが、健一は笑ってしまいそうだった。同じことを天津も思っているに違いないが、天津と目を合わせたら笑ってしまいそうなので、そっちも見ないようにする。 オリエンの後の飲み会のとき、水島は、世の中の部長は全員禿げている、というとんでもない持論を展開していたが、まさにそれを立証する人物だった。だが絶対に、笑うわけにはいかない。 「このたびは、弊社のコンペにご参加いただきありがとうございます」 奥歯に力を込めて耐える健一の前に、水島が資料を差しだした。 「こちらが今回の新商品開発資料、こちらがマーケティング資料になります」 「なるほど。ありがとうございます」 もらった資料を確認しながら、天津が答えた。 「……じゃあ、まあ、今日のところはいいかな?」 水島の論を実証する広報部長が、早々に席を立とうとした。 「あ、でも。お二人から質問をお受けすることになっていますので」 「ああ、そう」 彼は最初から健一たちに興味がない、というか、半分無視しているような感じだった。 彼にしてみれば、聞いたことのない新しい会社に、自分たちの思惑を邪魔されたのだ。健一たちがコンペに参加表明していなかったら、彼らは目論見どおり伝信堂とコンペ抜きで取引を開始することができた。
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