広告の会社、作りました
1、いい人生ってなんだろう(3)
運命がゆるがされた一日が終わると、翌日から、受難の日々が始まった。
先輩のアドバイスに従って、健一はアドプラのような制作会社ではなく、広告代理店への転職を試みた。だが大手はもちろん、中小の代理店からも、ことごとく不採用をくらった。面接が苦手ということもあるが、そもそも書類審査で落とされることも多い。就職して二年を過ぎていれば良かったのかもしれないが、一年三ヶ月というのは、キャリアとして認められにくいようだ。
フリーでやってみたらどうだ、とアドバイスしてくれる先輩もいた。元アドプラ社員のなかには、転職せずにフリーランスとしてデザイナーやディレクターを続けている人もいる。だけどそもそも、フリーランスというものがどういうものか、健一にはわかっていない。
「……フリーランス、って、どうやって仕事すればいいんですか?」
「やってみれば、簡単だよ」
先輩は事もなさげに説明してくれた。営業して、仕事を取ってきて、仕事をしたら納品して、請求書を書いて、お金の管理をして、年に一度確定申告をする。
「それだけのことだよ」
営業して……、仕事を取ってきて……、と、理屈はわかるのだが、そんなことが自分にできるとは思えなかった。そもそも誰に営業すればいいのかもわからないし、もし自分がクライアントだったら、こんな、はあ、とか、うーん、とか言っているデザイナーに仕事を頼みたくないだろう。
会社に入りたい、というのが、健一のたった一つの小さな願いだ。
大きな会社じゃなくたっていい。豆つぶのように小さな自分にだって、少しの特技や情熱はある。どこか会社に入って、与えられた仕事を淡々とこなす。そうして世界の経済活動の一翼になれるだけで、満足なのに……。
――最近どう? 年末にはこっち来るよね?
――元気でやってるよ。行くつもりだよ。
母からのメッセージに、健一は短い返事をした。
一人親の母は、健一が就職するのと同時に再婚し、九州に引っ越した。小さな頃から苦労をかけた母には、会社が倒産してしまったことは伝えられなかった。早く転職先を決めて、実は転職したんだよね、と言おうと思っているのだが、その日は本当に来るのだろうか……。
不安だ、と健一は思う。
自分は未だ、どこにも、何にも、所属できていないし、その見込みもない。失業保険は、今月で支給が終わってしまう。
忘れていたコーヒーに口をつけると、すでに冷めてしまっていた。自分は一体、ここでなにをしているんだろう……。
健一はぼんやりと、今日ここに来た理由を思いだした。
登録した転職サイトの求人案件には、あらかた応募し尽くしてしまった。だから今日は、駅などに置いてあるタウン誌の求人広告を探しにきた。場合によっては、アルバイトをしなければならないし、あらゆるタウン誌を集めようと、街に出てみたのだ。
駅やコンビニで集めた多くのタウン誌が、健一のリュックには入っていた。冷めたコーヒーを口にしながら、取りだしたそれを、ぱらぱらとめくってみる。
そんなに都合よく目指す求人は見つからないだろうな、と思っていたのだが、そのとおりだった。めくってもめくっても、契約社員やアルバイトの募集が多くて、健一が目指すものはない。二冊目も、三冊目も、同じような感じだ。だけど――、
――デザイナー募集 即戦力求ム 服装自由。
砂漠のなかで、ふいに金貨を拾ったような気分だった。誌面の片隅の切手一枚分くらいの小さな広告だったが、「デザイナー募集」の文字が輝いている。
信じられない気分だったが、考えている暇はない、とも思った。広告にはメールアドレスだけが書いてある。t、e、n、s、h、i……、と、そのアドレスをベタ打ちし、広告を見て応募した、ということだけを書いて、一息に送信する。
ぴろりーん、と、スマートフォンがメールの送信完了を告げた。
もっと長い文章を書けばよかったのかもしれないが、誰かに先を越されたくなかった。だけどどうだろう……。たまたまこの求人を見て、デザイナーの応募をする人間が、何人もいるとは思えない。これは会社の求人広告というより、家庭教師募集とか、迷い犬探してます、とか、そういうものに似た匂いがする。
ぴろりーん、と音がして、スマートフォンがメールの受信を伝えた。さっきメールを出してから、まだ一分も経っていなかったが、それは確かに、健一に届いた返事だった。
――明日の十四時にお越しください。
十数文字の簡素な返事だったが、健一は金貨に続いて、宝箱を掘り当てたような気分になった。この三ヶ月近く、誰にも必要とされなかった自分が、ついに誰かに必要とされている!
だけどこれ本当なんだろうか、と、疑いの気持ちが湧いたあたりで、今度は住所の書かれたメールが届いた。
坂戸通り一 ー 一 ー 一 秀徳レジデンス一○一号――。
さっきのメールからまだ十数秒しか経っていないし、住所の他には何も書かれていなかった。もしかしたら、先方も急いでいるのかもしれない。
健一は慌てて、明日の十四時に指定の住所に伺う旨を、返信した。
三ヶ月なんの進展もなかったが、一分か二分で、こんなに話が進むこともある。
残っていたコーヒーを飲み干し、健一は立ちあがった。もしかしたらコーヒーのSは、採用のSなのかもしれない、などとバカなことを考えながら。
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