◇ Immigrant Song――。 レッドツェッペリンの「移民の歌」は、いつでも健一を奮いたたせてくれる。自分は今から、新世界へと向かうのだ。 それは、ほとんど記憶にはない健一の父の、好きだった音楽だ。物心のつく前に亡くした父が、遺していった何枚かのレコード。その当時、健一の家にはすでにレコードプレイヤーはなかったが、父はレッドツェッペリンのアルバムだけは処分せず、ずっと手元に置いていたらしい。 中学生になって聴き始めたその音楽は、健一にとって特別なものになった。飽きるほど聴いてしまったそれを、今では理由なく聴くことはない。理由があるときだけ、健一はその音楽に浸り、大切な何かを取り戻そうとする。 目的の駅に着き、健一は静かにヘッドセットを外した。 地下鉄の列車を降りた足取りに、迷いはなかった。6番出口を降りて、道なりに進み、左に曲がる。アドプラ時代に仕事で何度か来た、馴染みのある通りを進み、途中、何度か時間を確認する。 名古屋市いちばんの繁華街の、一つ手前の駅前に広がる街だった。住宅用のマンションとオフィス用の雑居ビルが混在しているが、進むにつれて街が賑やかになっていく。やがてほとんど繁華街と言っても良い場所まで、歩いてくる。 坂戸通り一 ー 一 ー 一 秀徳レジデンス一○一号――。 目的の秀徳レジデンスは、三階建てのかなり古いマンションだった。マンションを囲む木々の育ちすぎた感じが、築三十年以上、もしかしたら築四十年とか五十年を想像させた。窓まわりの白い鉄格子や、白い外壁の凹凸も、最近の建物には見られないものだ。 一 ー 一 ー 一 ー 一○一、というゾロ目の住所は、事務所として狙って入居したのだろう。ぱっと見は居住用のマンションだが、あえてこういうところにオフィスを構えるのは、ここの社長のセンスなのかもしれない。 ゾロ目と言えば、今日の日付は十月二十三日で、アドプラが倒産してちょうどぴったり三ヶ月だった。大丈夫、きっと自分は採用してもらえる。ちょうどぴったり三ヶ月で、自分は社会復帰するのだ。 約束の時間まであと四分なのを確認し、さっと身なりを整えた。「服装自由」と広告に書いてあったので、ネクタイはしてこなかった。だけどこれくらいは礼儀だろうと思ってジャケットを羽織ってきた。三つあるボタンのうち上二つをとめ、深呼吸をする。 やがてゆっくり歩を進めた健一は、無人のエントランスを抜けた。右か左か迷いながら右に曲がったが、それで正解だったようだ。目の前にあったドアの脇に、一○一という表示がある。 一○一の表示の下に、手書きの表札が差し込まれていた。油性ペンで簡単に書かれたものだが、シンプルでセンスがいい。 ――天津功明広告事務所 広告を見て連絡を取ってここまでやってきたのだが、そう言えば会社名は今初めて知った。AMGとか昭明社とかアルファー・ディー・スリーとか、これまで試験を受けてきた会社名とは全然違うけど、何と言うか、昔の探偵ドラマに出てくるような名前で、好感が持てる。 よし、と短く息を吐いた健一は、そろりとインターフォンを押した。 はい、という低い声がスピーカーから聞こえた。と同時に、いきなりドアが開いたので驚いてしまった。 「……あ、はじめまして、メールした遠山です」 「ああ、どうも。天津です」 「あー、はいー」 テンシンだとばかり思っていたので、あー、はいー、などとおかしな返事をしてしまった。「天津功明」という名前から年配の男性を想像していたが、三十代か、もしかしたら二十代かもしれない。 「どうぞ、入ってください」 背が高くて、うすくヒゲを生やし、どうぞ、と部屋のなかを指す手が大きかった。柔らかそうな綿の白シャツに黒のスウェットパンツという、カジュアルな服装をしている。事務所には今、彼以外に人がいないのか、玄関には底の薄いスニーカーが一足だけあるだけだ。 健一は靴を脱ぎ、揃えられた黒いスリッパに足を入れた。歩きだすと同時に、はいこれ、と彼が小さな紙を渡してきた。 何だろうと見てみると、名刺だった。 天津功明――。 天津功明広告事務所の天津功明さんということは、彼がこの事務所の代表なのだろう。だけど名刺の肩書きは、代表とかアートディレクターとかではなく、『コピーライター』だ。 「じゃあ、こっちの部屋で」 通された六畳くらいの小さな部屋には、作業机と椅子だけがあった。がらんとした部屋を構成する面と線が、白と黒だけで構成されている。 「さっそくだけど、このチラシ作ってもらえるかな。B4の表と裏」 「え……?」 男がいきなり紙を差しだしてきたので、健一は驚いてしまった。 「ん? どうしたの?」 「あの、面接……、面接じゃないんですか?」 「ああ! そうだったね。えーっと、名前は?」 「遠山健一といいます。よろしくお願いします」 慌てて頭を下げた健一に、天津はにこやかに微笑んだ。 「おー、よろしくね、遠山ちゃん。じゃあ、これテストだと思って、やってみてよ」 「……テスト……ですか」 遠山にわたされた紙を見てみると、顧客がまとめたと思われる発注シートだった。商品の仕様や納期などの指示が、細かく箇条書きされている。 「……クリスマス、ケーキですか」 「うん。もうそんな季節なんだねー」 七月末にアドプラが倒産して、暑い時期の転職活動を経て、今はもう暑いと感じる日なんてなかった。十月末の今はもう、クリスマスケーキのチラシを準備する時期なのだ。 「わかりました。じゃあ、テストのつもりでやってみます。Macはどこですか?」 「Macはないね。そのリュックには入ってないの?」 天津が健一のリュックを指さした。 「はい……一応、MacBookを持ってきましたが」 「じゃあ、それでやってくれないかな?」 「いや、でも、」 「取りあえずでいいからさ、取りあえず」 「……わかりました」 デザイナーを募集しておきながら、Macが用意されていないとは、どういうことだろうと思ったが、取りあえずということであれば、MacBookでも充分対応できる。 「これは、どこまでやればいいですか」 デザインを最後まで仕上げるには、結構な時間がかかるものだ。面接のテストということなら、一時間でどの程度まで仕上げられるか、といったテストか、あるいはメインビジュアルのサムネイルを作って見せてみる、とかそんな感じを健一は予想した。 「そうだね。今日は表だけでいいや。表面を今日中によろしく」 「表? 表面を全部ですか?」 「そう。クライアントにせっつかれててさ。急ぎなんだよね」 面接試験を想定していた健一は、驚いてしまった。話の流れを総合すると、つまり今、自分は面接を受けているのではなく、普通に仕事を頼まれているようだ。 「頼むよ、遠山ちゃん。今度メシ奢るからさ」 こ、これは……、たまたま緊急事態に遭遇してしまったのだろうか……。だけどこの人は、健一の実力もキャリアも何も知らないのに、どういうつもりで仕事を頼んでいるのだろう……。 「原稿と画像データがあるからさ、昨日のメールアドレスに送ればいいよね?」 「……はい」 「了」 と言った男は、くるりと踵を返して、部屋を出ていってしまった。まじか、と思いながら健一は、作業机の上にMacBookをだした。電源コードを繋ぎ、システムを起動する。Wi-Fiのパスコードが書いた紙が机の前に貼ってあったので、いいのかな、と思いながら入力する。 メールを確認すると、隣の部屋にいると思われる天津から、すでにメールが届いていた。データにアクセスできるURLに、よろしく、遠山ちゃん、という文字が添えられている。 まじでか、と声にださずにつぶやいた。 ここに来てまだ五分くらいしか経っていなかった。そもそも健一が今日MacBookを持っていなかったら、彼はどうするつもりだったんだろう……。もっと言えば自分がここに来なかったら、この仕事は誰がやったんだろう……。 いくつかの疑問をいったん脇に置いて、健一は写真や発注書などのデータに目を通した。大型スーパーで販売する、クリスマスケーキのチラシ――。店頭に掲示したり、新聞の折り込み広告になったりするものだ。 懐かしい、と思った。アドプラにいたころ、これと似たようなチラシを何枚か作ったことがあった。初めて作った「マルキタの新餃子」のチラシは、今でも部屋に大切に保管してある。 面接のテストだと言って仕事をやらせる天津に、それはどうなんだろう、と思ったが、実際にはそんなに嫌な感じはしなかった。世間のルールや常識からは逸脱していても、彼は自然体で計算がないというか、悪意のなさそうな人だ。 どうせ家に帰っても、することはなかった。そして正直なところ、久しぶりのデザインワークに、健一の胸は高鳴っている。自分は今、世界に必要とされているのだ。 MacBookのタッチパッドに手をかけたとき、いきなり部屋の外から話しかけられた。 「遠山ちゃん、ちょっと行ってくるわ」 「はい?」 それから何ごとかを早口で説明した天津は、黒いジャケットを羽織って、部屋を飛び出していった。がちゃん、と、玄関の扉が閉まり、健一は一人、事務所に取り残される。 「……まじでか」 今度は声にだしてつぶやいた。よく聞き取れないところもあったが、要するに、十五時からプレゼンがあるから行ってくる、とのことだ。 初対面の人間にいきなり留守番させるなんて、不用心すぎやしないだろうか……。というより、全体的に行き当たりばったりで、この会社は本当に大丈夫なんだろうか……。 まだローンの支払いが残っているMacBookに、健一は目を戻した。デスクトップの中央には、鉛の飛行船が炎を上げながら浮かんでいる(レッドツェッペリンのレコードのジャケット写真だ)。まあいい……。そういうことは、後で考えよう……。 「You shook me!」とつぶやきながら、健一は昔作ったB4チラシのファイルを探した。それをベースに新規ファイルを作成し、作業を開始する。
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