広告の会社、作りました
1、いい人生ってなんだろう(1)

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 転職活動を始めて三ヶ月になるが、良い結果はさっぱり出なかった。日々、銀行口座の残高が減り、気力が削られていく。この状態が続いたら、自分はどうなってしまうのだろう……。  パーカーのフードを深く被り、遠山健一は人波を避けながら歩いた。  街にいる人のうち、何者でもないのは自分だけだ、と感じてしまう。高校生の集団、スーツ姿の会社員、レジを打つ店員、工事現場の作業員、定年後と思われる老人――。彼らは自分のことを、どこの誰だと説明できるだろう。それができない自分の行く末は、ろうそくの焔のように、ゆらゆらと頼りなく揺らめいている。  不安だ、と、健一は思った。  左にあるオフィスビルの入り口に、テナント企業を示すプレートが並んでいた。下から富士マーケティング、青木クリニック、ケイオーリフト、ワンエレファント、株式会社ハルガ、オールミット、久石工業、株式会社ロムクリア――。通り過ぎた先にも、同じようなオフィスビルが並び、同じようにいくつもの会社が入居している。  健一の住むこの名古屋市だけで、十万を超える事業所があるらしい。大小の差はあっても、それぞれの事業所には、それぞれの仕事がある。それぞれの従業員たちはみんな、社会を構成する一員として立派に働いている。  逃げるような気分で入ったそのコーヒーショップも、考えてみれば全国チェーンの大きな会社だった。カウンターで働く人たちの他にも、経理や人事や営業の仕事をしている人がいるのだろう。健一の求める、デザイン部門もあるかもしれない。  早くどこかの会社に入って、デザインの仕事がしたい……。  パーカーのフードを外して見回した店内に、デザインされていないものなどなかった。コーヒーのカップにも、メニュー表にも、商品を宣伝するPOPにも、感じのよいデザインが施されている。店員の帽子やエプロンや、椅子やテーブルやゴミ入れや、カウンターで注文している客の服やカバンも、すべて誰かがデザインしたものだ。  世界にはこんなにデザインが溢れているのに、自分はこの三ヶ月、それをまったくできていない。この状態がいつまで続くのか、目処もなにもない。キャリアは一年を過ぎ、ようやくデザイナーという肩書きに慣れてきたところのに……。 「お待たせしましたー。ご注文をどうぞー」 「……ホットコーヒーの、……Sで」  自分の順番がまわってきたので、健一は久しぶりに声をだした。 「はい。サイズはSでよろしかったでしょうか?」  健一の声が小さかったのか、スタッフに聞き返された。 「……はい。Sで」 「ホットコーヒーのS、ありがとうございます」  居心地の悪さを感じながら会計をし、コーヒーを受け取った。席について、周りを見回し、誰も自分に注意を払っていないことを確かめる。  不安だ、と、健一はコーヒーカップを見つめた。  就職できないのも不安だし、今コーヒーを飲んだら熱すぎて火傷するんじゃないか、というのも不安だ。自分が頼んだのはコーヒーのSだが、そのSは失業者のSと思われているんじゃないか、だからスタッフがSを強調したんじゃないか、と、そんなあり得ないことまで心配してしまう。  まさかこんなことになるなんて……。健一にとってそれは、青天の霹靂だった。迷ったり悔やんだり、ということではなく、ただ当たり前にあった一本の道が、突然途切れたのだ。  デザインの専門学校を出た健一は、広告制作会社「アド・プラネッツ」、略してアドプラに勤めていた。社員総勢十数人の小さな会社だが、コロナ禍のなかでも何とか上手くやっていたし、この先もここで働くものだと思っていた。  終身雇用の時代はとっくに終わったと知っているけれど、そもそも健一にとって未来とは、一年後とか、せいぜい三、四年後のことだ。指示された仕事をやって、やり直しを求められたらやり直して、OKが出たら終わりで、ときどき褒められることがある。仕事とはそんな感じのことの繰り返しで、その先に何があるかなんて、あまり考えたことがなかった。  あるとき、アドプラのメイン顧客クライアントが、テレビのニュースに取りあげられるような不祥事を起こした。仕事をしているとそういうこともあるのか、という、ぼんやりした感想を健一は持った。  その日を境に、アドプラの仕事量が、わかりやすく減っていった。やがて一人、二人と社員が辞めていき、しかも優秀と思われる人から順に辞めるので、なにか普通ではないことが起こっている、と理解が追いついてきた。  このままではまずいのかもしれなかった。でも新人に毛が生えたような自分に、できることなどない。うっすらとした不安のなか、辞めた先輩デザイナーの仕事を引き継ぎ、健一はそれまでよりもかえって忙しい生活を送る。 「なので遠山くん、パイプ椅子を用意しておいてもらえる?」 「はい、了解です」  その日、会社全体で、ミーティングがあるということだった。  社員全員となると大会議室でも椅子が足りなくて、これまでだったら五個か六個、椅子を運び込む必要があった。だけど今は退職してしまった人がいるので、一個か二個で足りそうだ。  夕方、外回りの営業の人が会社に戻ってくると、マネージャーの号令で、全員がばらばらと会議室に入った。ほどなくして入ってきた社長の権田に続いて、もう一人、かっちりしたダークスーツ姿の男性が姿を見せた。  あれは誰だろう、と社長の隣に座ったその人を観察したが、見覚えがなかった。社長に目を戻すと、いつになく緊張した表情をしている。 「今日、みなさんに、集まってもらったのには、理由があります」  震える声で言った社長は、おもむろに立ちあがった。 「……実は、この会社は今日で倒産します。大変申し訳ない」  深々と頭を下げる社長を、社員一同は声もなく見つめた。 「残念ながら……、会社の資金が続かなくなり……、今後の事業継続は、断念せざるを得ません」  雷を浴びたような気分だった。会社というものは倒産することがある、とは知ってはいたが、その瞬間がこんなふうに訪れるなんて、想像すらしなかった。 「……質問は、後ほど受けつけますので、まずは説明をさせてください」  ゆっくりと着席した社長は、手元の資料に目を落とした。 「……債務総額は、約八千万円です。債務超過の主な理由は売上減・利益減による資金不足になります」  気丈に振る舞っている、というのだろうか。最初こそ声を震わせていた社長だか、そこからは凜とした態度で説明を続けた。 「本日をもって、株式会社アド・プラネッツは倒産となり、社員の皆さんを解雇せざるを得ません。給与はこの後、給与明細とともに手渡しします。予告のない解雇になるので、解雇手当一ヶ月分を、給与に加えて支給します」  メモを取るべきなのかもしれないが、それをする者は誰もいなかった。 「離職票は、この場に間に合わなかったので、数日後に郵送します。みなさんはそれをハローワークに持参し、失業手続きをし、失業手当等を受け取ってください。退職金についても、共済から支払われますので、それぞれ手続きをお願いします」  社長の説明はよどみなく続いた。  会社にある私物を、本日中に整理し持ち帰ってほしい。この後は、社長の代理人である弁護士が会社の倒産処理をする。明日以降は、代理人の立ち会いがなければ会社に入れない。継続中の仕事をどうするかは、役員が得意先と調整する。例えばフリーランスとして継続して参加するかどうか、当人の都合で決めて良い――。 「このたびは、私の力不足でこのようなことになり、大変申し訳ないと、思っております。しかしこれ以上事業を続けていくと、損失ばかりが膨らみ、みなさんに給与を支払えなくなるおそれがあったので、倒産を決断しました。どうか理解してください」  隣に座る先輩のため息が聞こえた。健一は呆然と社長の顔を見ていたが、半分位の社員は下を見ている。

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