使用するソフトウェアは、AdobeのIllustrator、通称「イラレ」だ。ペラもの(一枚もの)のデザインは自由の利くイラレを使い、ページもの(冊子もの)はページレイアウトの効率の良いInDesign、通称「インデ」を使う。 仕事はしばらくしていなくても、目と手は覚えていた。三ヶ月のブランクを埋めるように、健一はもくもくとデザインを整えていく。世間のみなさまより一足先に、クリスマス気分を味わいながら。 気付けば三時間くらい経っただろうか。 大方のレイアウトを終えたところで、喉が渇いていることに気付いた。飲み物を買いに行きたいが、留守番を頼まれている身として、部屋を空けて外に出るのはまずそうだ。 健一は抜き足差し足のような格好で、事務所内を見回ってみた。 事務所といっても、要は普通の3LDKの間取りのようだ。人の住んでいる気配がまったくないので、ここは事務所専用のスペースなのだろう。 LDKには大きなテーブルと五つの椅子があった。きっとここは打ち合わせをしたりする場所だ。あとは三つ部屋があるが、一つは健一が作業をしていた部屋で、残り二つも同じような感じの部屋だ。モノが少なく、片付いていて、全体的に白と黒とほんの少しの緑(観葉植物)で、雰囲気が統一されている。 キッチンの冷蔵庫を勝手に開けると、ミネラルウォーターがぎっしり詰まっていた。これは貰ってもいいやつだろう、と、一本を頂戴する。蓋を開けて喉を潤し、振り返ったときだった。 「うお!」 健一の目の前、というか目の下に猫がいたので驚いてしまった。完全停止した猫が、じっと健一を見つめている。 「……あの、すみません。おじゃましてます」 猫はしばらく微動だにしなかったが、やがて、あ、そう、という感じに、リビングから去っていった。さっき部屋を見回っていたときにはいなかったと思うけれど、一体、どこから現れたのだろう……。 「びっくりしちゃうな、まったく」 デザイン作業に戻ろうとした健一だが、部屋に入るなり、のけぞってしまった。 「うわ!」 驚きは、さっきの比ではなく、おそらく、会社が倒産したのに次ぐ驚きだった。いつの間にか帰ってきた天津が、さっきまで健一が座っていた椅子に腰かけて腕組みしている。 「代理店のジャブローニは、まったくヒアリングがなってなかったよ。……あれ? 君って誰だっけ? ……って、うそうそ。遠山ちゃんだよね。チラシどう?」 ジャ、ジャブローニって何だろう、と思いながら、健一はMacBookのスリープ状態を解除した。どぎまぎしながら、さっきまで作っていたチラシを、天津に見えるように差しだす。 「……えっと、……発注書を見て、商品をすべて並列に扱うより、メインを押そうかなって。……あと色味は暖色にして、ちょっとあったかい感じにしました。……これから寒くなるので。どうでしょうか?」 しどろもどろの説明だったが、天津はモニターを食い入るように見つめて、うんうんと真面目に頷いた。そして息を吐きながら言った。 「……すばらしい」 気に入ってもらえる自信は少しあった。だけど「すばらしい」なんて言葉は、今まで一度も言われたことがなかったんじゃないかと思うほど、耳慣れない言葉だ。 「うん、ここからは見えるよ。デザイナーの仕事とは、ただきれいにデザインすることではなく、その商品の価値をしっかり見えるようにすることだよね」 「……はい」 「クライアントのニーズは何か? 商品をどう見せたいのか? 遠山ちゃんのデザインは、杓子定規なこの発注書から、ちゃんとそれを汲み取っている。それだけじゃない。この商品は消費者にどんなベネフィットを与えるのか? このデザインはそれを提案している」 「……ありがとうございます」 正直、そこまで考えてデザインしたものではなかった。ただ、このほうが綺麗かな、このほうがインパクトがあるかな、と、何となくそういうことを考えていた。テストという意味合いも考えて、健一は少し大胆に、チラシをデザインしてみたのだ。 「すばらしいよ。じゃああとは、コピーを入れて、完成だ」 「え? コピーですか? コピーはこれじゃないんですか?」 発注シートには『Merry Christmas 笑顔のハッピークリスマス』というコピーが書いてあった。健一はそのコピーを、そのままチラシにレイアウトしていた。 「そういうんじゃなくてさ、お客さんがチラシ見て、あーもう、このケーキ買わなきゃ損かも、みたいなコピー」 「……でも僕、コピーは書いたことなくて」 「そっか。じゃあおれが、今日中に考えとくわ。明日、そのコピー入れて出力してくれる?」 「明日、ってことは……つまり……採用していただける、ということでしょうか?」 「そうだね。採用っていうか、一緒にやる仲間、みたいな」 「仲間?」 「うん。だって、うちは会社じゃないんだよね。だから雇用というわけにはいかなくて」 「え、でも事務所ですよね? 確か天津功明広告事務所……って」 「それは屋号だよ。勝手に名乗ってるだけで、全然会社じゃなくて、おれ自身は単なる個人事業主だから」 「……会社じゃない、……のですか」 「うん。そもそもここに引っ越してきて、事務所を名乗って、まだ二ヶ月だからね。だけどさ、」 天津はにやり、と笑った。 「これから、デザインを含めた依頼が、多く入りそうなんだよね。一緒にやってくれる人がいたら、そういう仕事も受けられるでしょ? もちろんギャラは山分けするよ」 「いや、ちょっと待ってください。じゃあ僕の立場は、会社員じゃなくて、フリーランス、ってことですか」 「そうそう。仕事はおれがばんばん取ってくるからさ。おれたちいいパートナーになれそうじゃない?」 話が違う! と思ったが、よく考えたら、もともと天津からは、何の話も聞いていなかった。 「あー、でもそうか。あの募集だと、会社って思われても仕方がないかもね。あれってさ、タウン誌の仕事少し手伝ったときに、スペースが余ったっていうからさ、無料で募集入れてもらったんだよ。あんな誰も気付かないような小さな求人で、こんな優秀なデザイナーが来てくれて。人生捨てたもんじゃないよね」 「いや……でも僕は、どこかの会社に就職したくて……」 「そっか。じゃあまずは、フリーでばんばん仕事してさ、そのうち法人化も考えていこうよ。晴れて法人化したら、Youは"遠山副社長"ってことで」 「えええ?」 この人は、なんて楽観的なことを言っているのだろう。それなりに頑張っていたアドプラだって倒産したのに、健一が副社長の会社なんて、秒で倒産しそうだ。 「……すみません。僕は、……ちょっと、考えさせてください」 「うん、前向きに考えてよ。あ、この仕事は、ほんとにすばらしかったからさ。このぶんのギャラは、どっちにしても支払うから」 「……ありがとうございます。……一応、考えてみます」 「うん、待ってるよー」 その後も微妙にちぐはぐな会話を交わし、健一は礼を言って事務所を出た。 なんだったのだろうか……。 歩きながら、健一は長いためいきをついた。この時間は一体何だったのか。フリーランスなんて、社会保険も自分でなんとかしなきゃならないんだし、自分には向いていないとわかっている。自分はどこかに所属して、安心して、暮らしたい。母親にもそう、報告したいのだ。 駅に向かう途中、たくさんの「働く人たち」とすれ違った。この人たちは自分とは違って、みんなどこかの組織に属し、なにかの仕事をしている。今まで何度も思ったことを、健一はその日も思う。 みんなどこかに所属して働いているんですよ、天津さん――。 そこまで考えて、あれ、と健一は思った。自分がそう思い込んでいるだけで、ひょっとすると、この中にも、組織にも属していない人がいるかもしれない。天津がそうだったように。 広告事務所を名乗って、あんなふうに仕事をしている人もいるのだ。 自由な働き方、という世間の潮流を、健一はその日、初めて目の当たりにしたのかもしれない。
コメントはまだありません