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1、いい人生ってなんだろう(9)

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      ◇  Immigrant Song――。  SONYのヘッドセットと鼓膜の間の小宇宙で、ロバート・アドントが人類最強の雄叫びをあげる。今、再びこの曲を聴く"理由"が、健一にはある。 「移民の歌」は、北欧の勇敢なバイキングが、新世界へと向かう様を歌にしている。そんな大げさな話ではないのだが、健一は今日、チラシのデザインを仕上げてしまうつもりだ。そして他にも仕事があれば、喜んで引き受けよう。  彼と一緒に、もう少しだけ仕事をしてみたい。彼から仕事を学びたい――。  別に入社するわけではないから、大きな縛りがあるわけではなかった。再び転職活動の生活に戻っても、それは元に戻るだけで、なにかを失うわけではない。僅か三日で、いきなりこんな前向きな考え方をしている自分に、健一は少し驚いている。 「おはようございます!」 「おー、おはよう」  挨拶をして事務所に入った健一は、さっさと一人の作業部屋に入った。あとは黙々と作業を進める。迷ったときには、それをどのように説明するかを考えながら。  十二時を過ぎると、ぴろろん、と音が鳴った。パスタ食べる? という天津からのメッセージだ。いいんですか? と返事をすると、ものの数分で、できた、というメッセージが届いた。  どういうことだ? と、リビングに向かうと、炒めたニンニクのいい匂いがした。キッチンでは天津が、トングを捻るようにしてパスタをよそっている。二つの皿を運んできた天津が、無造作にそれを置いた。 「どうぞ」 「……はい」  パスタに、唐辛子に、ニンニクに、少しのベーコン。それはシンプルな見た目の、ペペロンチーノだ。いただきます、と手を合わせ、健一はそれを口に運ぶ。  ……え!? 「ええ!? なんすかこれ!? 超絶、美味しいんですけど!」  それがのけぞるほど美味しかったので、健一は実際にのけぞってしまった。 「そう?」  天津は、にやり、と笑った。 「どういうことですか? だってこれ、ほら、めっちゃ美味いですよ」  こんなに美味しいペペロンチーノがあるなんて知らなかった。いたってシンプルな料理のはずなのに、一体どんな秘密があるのだろう! 「まあ、コツといっても、塩をきっちり計量するのと、お湯をあんまりぐらぐら沸騰させないことくらいかな。あとはオリーブオイルとゆで汁を、きっちり乳化させること」 「乳化! いやー、だけどこれ美味しいなあ」  健一は夢中になってそれを食べた。それにしても美味しいペペロンチーノだ。 「……健一くんって、何だろう、……息子力があるな」 「息子力ってなんですか? うち父親いないですよ」 「……ほう。お母さんは?」 「今、九州です。再婚したんですよ」 「へえー、そうか」  最後の一束を名残惜しくフォークに巻き、口に運んだ。 「美味いです。……それであの、チラシですけど、これ食べたら、一度見てもらっていいですか?」 「ああ、もちろん」 「わかりました。ごちそうさまです。ありがとうございました!」  ミネラルウォーターを一気飲みし、健一は立ちあがった。その姿を、天津が愉快そうな表情で眺めている。 「皿はそのままでいいよ。見るのは五分後」 「はい、ありがとうございます!」  健一は作業部屋へ戻り、ざっとチラシ全体を見直した。五分くらい経ち、MacBookを持ってリビングに向かうと、食事を終えた天津がキッチンで皿を洗っていた。 「はい、どれ?」  手を拭きながら、天津がMacBookの画面を覗きこんだ。 「裏面ですけど、こんな感じでどうでしょう」 「……うん。いいと思うよ」  じっと画面を見つめていた天津が目を離したタイミングで、健一は声をだした。 「それで……あの、」 「なに?」 「このチラシの仕事は、最後まで責任もってやろうと思います。それで、その他にも仕事はあるんでしょうか?」 「あるよ」  あっさり言った天津は健一のMacBookに手を伸ばし、どこかの企業のWEBサイトを表示させた。 「急ぐところでは、この医療系の会社のパンフレット。あとチラシの仕事も、あと二つくらい。ちょっと先になるけど、他にもいくつか仕事は取ってこれるよ」 「……それ、僕が手伝っても、いいんでしょうか」 「Yes、それはもちろん」  天津の言葉に、健一はほっとした。あと一ヶ月か二ヶ月かわからないけれど、自分はこの人から仕事を教わることができる。仕事の進め方についてや、デザインについてや、伊土コピー研究所の話も機会があれば聞いてみたい。  いつの間にか足下に猫がいて、健一を見上げていた。この猫とも、これから仲良くしなければならない。 「よろしくね、権蔵」  と言う健一を、猫はシカトする。 「いやいや健ちゃん。彼、権蔵じゃなくて、ボンゾだから」 「ええ!?」 「ボ、ン、ゾ。若い人には、わからないかもしれないけど」 「まじですか!?」  驚く健一に、天津は何を驚いているのかわからない、という表情をした。 「ボンゾって、もしかして、あのボンゾですか?」 「んん? 知ってるの?」  知っているもなにも、ボンゾと言えば、レッドツェッペリンの伝説的ドラマー、ジョン・ボーナムの愛称だ。健一は今日も、彼の雷撃的なビートに浸りながら、ここにやってきたのだ。 「いやいやいや、ボンゾを知ってる若者に、初めて会ったよ」 「中学生の頃からずっと聴いてますよ。天津さんだって世代じゃないですよね? 天津さんって、いくつなんですか?」  聞けば天津は三十一歳ということだった。レッドツェッペリンは尊敬する先輩に勧められて聴くようになり、それからどハマりしたらしい。  亡くした父の持っていたレコードがきっかけで、という話をすると、天津は神妙な顔をした。 「そっか……。じゃあ、健ちゃんは、ZEPに父親を感じていたのかもね」 「いや、それは言い過ぎですけど。まあ少しは、そういうところがあるかもしれませんね」  二人はそれからしばらく、レッドツェッペリンの話をした。ボンゾ、ボンゾと言っていたせいか、足下にまた猫が寄ってきたので、健一は呼びかけてみた。 「よろしくね、ボンゾ」  今度は、んなー、と鳴くボンゾを見て、ふっ、ふっ、ふっ、と天津は笑った。 「あのさ、言おうかどうか迷ってたことがあったんだけど、言うわ」 「……なんですか?」 「デザイナーと組んで、新しく、やってみたいことがあったんだよね」  天津はゆっくり、健一と目を合わせた。 「ガチで挑戦しようかな、って思ってたコンペがあるんだ。まずはプレゼンからなんだけど、これ通るとでかいよ。コピーとデザインに、撮影や印刷を含めると、千はいくかな。カタログだけでプロモーションが終わるということはないから、Webデザインやチラシの仕事も入ってくるだろうし」  千というのは一千万円のことだろう。ただ、コンペということはつまり、請け負えるか請け負えないかわからないということだ。お客さんに対して、計画や企画案を提案プレゼンテーションして、競合する相手に勝たなければならない。 「……それは、何をやる案件なんですか?」 「カタログ。クライアントはKAKITA」 「KAKITA……、ってもしかして住宅会社のKAKITAですか?」 「そうだよ」  どういう因果なのかわからないが、それはかつてアドプラのメインクライアントだった会社だ。KAKITAの子会社が不祥事を起こしたのがきっかけで、アドプラは倒産した。もし、そういうことがなければ、もともとその仕事に、健一も関わっていたかもしれない。 「……あの、それ、デザイナーは、僕でもいいんですか?」 「もちろん。ZEPを知っているデザイナーと、知らないデザイナーだったら、おれは優秀なデザインをするほうを選ぶよ」 「……え? どういうことです?」 「冗談だよ、冗談。でも健ちゃんには伸びしろがあるよ。むしろ伸びしろしかない」 「……あの、天津さん。全然褒められてない気がするんですけど」 「いいんだよ。おれは信じてるから」 「……なにをですか?」 「ZEPの崇高な魂を、だ」  やっぱり全然褒められてなかったが、天津は真面目な顔で健一を見た。だけどそれを信じている、というのなら、健一だって信じている。 「……わかりました。やります。やらせてください」 「OK、じゃあ一緒に頑張ろうか」 「はい」 「よろしく相棒」  出された手をがちっと握り、二人は腕相撲スタイルの握手を交わした。 「この事務所は自由に使ってもらって構わないけど、別に雇用関係があるわけじゃないから、自宅で仕事してもいいからね」 「はい、わかりました」 「事務所に来たら、ときどきペペロンチーノを作ってあげるよ」 「まじですか! 他のメニューはあるんですか?」 「一切ないな。ちなみにカルボナーラは、おれたちの敵だから」 「ええ?」  よくわからないことを言う人だったが、おれたちの敵、という言い方には、ぐっときた。つまり胸にZEPの魂を灯す者にとって、チーズやミルクなどで作るカルボナーラは敵なのだ。 「じゃあ、天津さん。作業続けますね」 「うん。よろしく」  ボンゾに手を振り、健一は作業スペースに戻った。スリープ状態になったMacBookの黒い画面に、うっすらと自分の顔が映っている。  いつまでも不安がってばかりはいられないのだ。  待ってるだけでは何も起きないし、勝手に会社が倒産してしまうこともある。与えられるのを待つのではなく、自分が何かを起こさなければならない。  結局のところ、自分はもっと、自分の人生の当事者になるべきだった。眠り始めたばかりのMacBookを叩き起こし、健一は再び、そのチラシに向きあう。  ――実はいろいろあって、フリーランスのデザイナーになったよ。仕事も生活もしっかりやるから、心配いらないからね。  その日の夜、健一は久しぶりに、母にメッセージを送った。

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