社会人として第一日目の朝は、清々しい晴天で、まるで新生活を祝しているかのようだった。街中の桜の木もだんだん桜色が目立つようになって、天気予報では「桜前線」や「花粉情報」といった単語が目立つ。駅構内では、僕と同じように今日が入社式なのであろう、新しいリクルートスーツ姿で慣れない通勤ラッシュに戸惑っている人が多くいた。  僕の就職先は、駅から歩いて十五分ほどの所にある、ビルの一角に事務所を構える小さな会社。従業員も二十人ほどしかいない。数年振りの新入社員だそうで、入社式というよりかは、歓迎パーティーといったムードで、正によく求人広告に書いてある〝アットホーム〟そのものだった。 「この会社は見ての通り、社員数が少ないから石上君も数年経てばすぐに偉くなれるよ」 陽気な社長がガハハと笑う。年が近そうな先輩社員が居ない僕はただひたすら戸惑う。 「新社会人なんてそんなもんよ」 事務パートのオバチャン・・・おねえさんが社長につられて、ガハハと笑う。  僕が入社するのが、よほど楽しみだったのか事務所には、僕用に新しい机が置かれていた。席に座ると、簡単にこの会社の就業規則や業務内容の説明、なぜか一発芸付きの先輩社員の紹介で午前中は終了した。 「今日の昼メシは、石上君の入社記念に俺が社員全員分出してやるよ!」 社長がまたガハハと笑うと、他の社員はなぜか万歳三唱。なんともノリの良い会社だ。  事務所から歩いて一分もしない場所に、昔ながらの小さな中華料理のお店がある。店の名前は『来々軒』とどこにでもある名前なのだが、店主の奥さんの顔がモルモットに似ていることから、みんなは『モルモット食堂』と呼んでいるらしい。 「あら、いらっしゃい」 モルモットが手早く全員分の水をテーブルに置く。 「母ちゃん見てよ!今年入った新人」 社長は終始ご満悦だ。 「ずいぶん、若い子が入ったんじゃないの?」 厨房から中華鍋の振る音とともに、チャーハンの香ばしい匂いが店内を漂う。 「そりゃあそうさ。ついこの前まで高校生のガキんちょだったんだから」 社長は僕の肩を叩く。ちょっと痛い・・・。そして、競馬でひと儲けしたかのようにガハハと笑う。モルモットはそんな雑談の合間にも素早くみんなの注文を取り、雑談の区切りがいいところで、厨房に消えてった。 「あ、そうだ。社長!」 厨房の奥から店主の声が聞こえる。社長は何だい?と振り向く。 「右側のガスコンロなんだけど、最近火力が落ちてきてるんだよ。ちょっと見てくれるかい?」 社長は、またかいと小さくつぶやきながら、厨房に入っていく。僕の入社した会社は、個人飲食店向きの厨房器具の設計から販売、メンテナンスまでやっている会社で、ここの『モルモット食堂』は、長年付き合いのある、お得意様なのだ。 「旦那ぁ、前も言ったけど掃除しないとダメだって」 社長はそう言いながら、コンロの奥に詰まったモノをブラシで取り除く。再びコンロを点火すると、元の火力にもどった。 「助かったよ。じゃあ、今日は奢りだ。好きに食ってけ!」 店主が声高らかに言う。さきほどテレビで新元号『令和』を発表したばかりのこの時代に昭和な感じを残した絆がそこにはあった。  午後からは、簡単な事務仕事を一つ一つ丁寧に教えてもらいながら進めていった。資料整理をしていると、一言で業務用調理器具といってもいろんなメーカーや種類などさまざまで、奥深しさを感じた。 「このたくさんの種類の中から、お客さんのニーズに応えたものを選ばなければならない。文句を言われることが大半だけど、そのお客さんの店が開業して喜んで使ってくれていると、働きがいを感じるよ」 一人の先輩社員が、頷きながら言う。僕は不思議そうな顔をしていると、そのうち分かるよと付け足した。  午後六時を過ぎる頃、僕の記念すべき社会人第一日目の業務は終わった。帰り際に、今夜は飲みに行こうと社長からお誘いが来たのだが、すぐに「彼は、未成年でしょ!」と事務パートのおねえさんに突っ込まれて流れた。二年後は酒盛りしてそうな自分がなんとなく想像できた。  家に帰ると、まだ春休み中の由貴と面倒くさそうにニャーと鳴くマカロンが出迎えてくれた。由貴に今日あったことを話すと、楽しそうな会社でよかったねと笑顔で聞いてくれた。夕方のニュースでは、新元号が令和になった事を街頭インタビューを交えながら大々的に報じていた。昭和から平成に変わる時とは違い、世間は祝福ムードに包まれていることに各コメンテーターも喜ばしい表情をしていた。 「ねぇ、兄さん」 ソファーでくつろいでいた由貴が、いきなり真剣な眼差しで僕の顔を見つめる。 「あのね、その・・・。私」 そうかと思えば、今度は顔を赤らめて俯く。 「兄さんのことが好き。〝ライク〟の方じゃなくて〝ラブ〟の方で。兄妹とはわかっているけど、それでも兄さんのことが好き!」 妹のいきなりの愛の告白に、驚いていると、由貴はプスっと笑った。僕はわけも分からずキョトンとしていると、由貴は大笑いした。 「兄さん、可笑しい。冗談だよ、じょーだん!今日は何の日?」 入社とかで忘れていたけど、考えてみたら、今日はエイプリールフールだ。妹にしてやられてしまった・・・。 「兄さん、顔赤いよ?」 由貴は楽しそうに僕をからかう。 「うるせぇ!」 ああもう、かわいいなコノヤロウ! 「でも、好きなのは嘘じゃないから。ライクとしてね」 エイプリールフールの嘘で兄を驚かせて満足した妹は、自分の部屋に戻っていった。そんな話を、新社会人の記念すべき第一日目はどうだったよ?的な連絡をしてきた鵠沼にしたら、由貴と同じように大笑いされてしまった。 「いいよなぁお前は。なんか充実しててさ」 「充実って、まだ社会人一日目なんですけど・・・」 「いやいや、公私ともにってことだよ」 受話器の向こうで、はははと笑う鵠沼の声が、どこか切なく感じたのは気のせいだろうか。それからは、鵠沼が今度通う大学の話とか、たわいのない話を小一時間ほどして、電話を切った。ついこの間まで一緒にいた人が、互いに別々の道に向かって進み始めたと思うと、不思議に感じた。  翌日の朝は昨日とは打って変わって、どんよりとした曇り空。朝の天気予報では、春の嵐になるかもしれないと伝えていた。 「桜、全部散ったりしないかな・・・」 由貴が窓越しに曇り空を眺める。春の嵐が来なければ、由貴の入学式まで桜は見ごろだろう。何の根拠もないけど、由貴に大丈夫だよと頭をなでると、由貴は喜んだ。あぁ、なんて尊いんだ・・・。  今日は天気が悪くなるからか、昨日より電車は混雑しているように感じた。たった三十分の通勤時間でさえ、こんなにもキツく思うのはまだこの通勤ラッシュに慣れていなせいなのか、もともとそこまでのスタミナが無いだけなのか・・・。駅に着くと、何かの拘束から解放された気分になった。自由だって叫びたくなる。 「おはようございます」 事務所の扉を開けると、社長がコーヒーを片手に新聞を読んでいた。ちらっと僕の顔をみると、おはようとあいさつを返しガハハと笑う。 「今朝は、新聞もニュースも令和、令和ですごいよ。うちの会社も『令和』とか社名に付けちゃおうかな」 飲み終えたコーヒーカップを流し台で濯ぎながら、ガハハと大きく笑った。 「始業時間までまだあるから、ゆっくりしてなよ」 社長はそういうと今度は自分の机にある「失恋したてから始まる恋」というガラにもないタイトルの本を読み始めた。  二十分くらい経ったところで、先輩社員たちがぞくぞく出社してきた。一人ひとり丁寧に挨拶すると、みんな笑顔で返してくれた。 「よーし、全員そろったな」 失恋したてから始まる恋の物語に一区切りついたのか、社長は本を閉じた。特に習慣付けしている訳ではないらしいのだが、決まった時間に朝礼みたいな事を行う。 「石上君、今日は外回りを見てみようか」 「はい」 「じゃあ、藤沢君。石上君と同行頼んでもいいかな?」 「承知です」 藤沢さんはにこっとして応える。 「分からないことがあれば、なんでも聞いてね。まあ、最初は何が分からないかも分からないと思うけどね」 「はい」 まだ、折り目がハッキリわかる新品の作業着(会社では制服と言っている)に袖を通し、会社の車の助手席に座る。藤沢さんの担当している営業車はきちんと整理されていて、車内もきれいだった。 「おれは、タバコは吸わないからきれいに見えるだけだよ」 藤沢さんはシートベルトを締めながら言った。  外回りといっても、飛び込み営業とかするわけではなく、自分が担当しているお得意様の各事業所へまわり、今使っている厨房器具に不具合はないかとかいわば、定期点検巡回をしているような感じだ。そこで不具合が見つかったり、オーナーさんの要望にあった新商品が出た時など、提案していく。何回も足を運んで行けば、お互いに信頼しあっていくようになるからと藤沢さんは言う。 「石上君は、彼女とか居ないの?」 移動中の車内でベタな質問をされた。 「僕は男子校出身なので、彼女は居ないですよ」 「男子校かぁ。ってことは、あそこの男子校?」 僕は頷く。 「すげぇ、メッチャ頭良いじゃん!」 「いやいや、僕なんて中の下ですよ」 「いやいやいや」 「いやいやいや」 信号待ち。顔を合わせると、二人は大笑いした。  常盤橋の上を通る首都高は今日も慢性的に渋滞している。電光掲示板には渋滞情報の他に来年のオリンピックに向けた、交通規制の実証実験を行う旨の表示が出ていた。 「そういえば、来年はオリンピックなんだよね」 「なんか、実感湧きませんね」 数十年前に同じ東京でオリンピックを開催した時期に生まれていない者同士、未知なるビッグイベントに実感がわかないのも当然である。 「選手村の露店で、うちの調理器具がたくさん使ってくれたら良いんだけどなぁ」 愛社精神あふれる、藤沢さんがつぶやく。 「ほら、業績上がってボーナスとか増えるかもじゃん?」 特に愛社精神はそこまでないようだった。  お昼を過ぎた頃、雲行きは怪しくなり、しだいにフロントガラスに雨粒が目立つようになり始めた。 「こりゃあ、天気予報通りになりそうですね」 「今日は早めに切り上げようか」 藤沢さんはそういうと、会社に戻る道沿いにあるお得意様の事業所をピックアップして、車を走らせた。  事務所に戻ると、タイミング良く大雨が降り始めた。まだ午後五時前なのに、外は夜みたいに暗かった。 「おつかれさま。タイミングよかったねぇ。日ごろの行いかな?」 奥から社長が出てきてガハハと笑う。 「おつかれさまです。八重洲の『福来軒』の換気扇なんですけど、あれはそろそろ交換しないとマジでヤバそうだったので、とりあえずオーナーにレシプロ式から最新の排気口に交換した方が良い旨を提案してきました。本体価格と工賃合わせてどのくらいか見積書出してから考えるとのことです」 藤沢さんは社長と事務パートのおねえさんに、今日回った事業所の事を丁寧に説明する。 「だいたいいつもこんな流れかな。外回りは」 「はい。ありがとうございました」 藤沢さんはがんばれよっと微笑んでくれた。 「石上君もあと二カ月くらいしたら、自分で担当持って外回りに行ってもらうようになるからね」 社長は、月間予定表のホワイトボードに予定を書きながら言った。  会社を出る頃、雨は少し止んできてはいるものの風が強く吹いていた。遅延や運転見合わせの情報が駅の掲示板に表示される。幸い、僕の帰る方向の電車には影響ないようだ。けれども、振替乗車の乗客で朝よりも車内は混んでいた。いや、すし詰め状態と言ったほうが良いだろう。身動きが取れない体制での三十分はつらかった。  本日二度目の解放感に今度こそ自由だ!と叫びそうになってしまった。雨は完全に止んでいたが、風が台風のようにつよい。僕はふと、今朝の由貴の事を思い出して駅前の桜の木に目をやる。桜の木は左右に大きく揺れながらも花びらを落としているようには見えない。よかった。桜の入学式になるのも問題なさそうだ。 「あれ、もしかして石上くん?」 どこかで聞いたことがあるような女声に振り向くと、そこには・・・・・・。

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