中学三年の夏休み直前。僕は、期末テストの結果と順位表を見て唸る。中学二年の時よりも成績が少し落ちている。確かに中学三年になってからは、勉強の内容もレベルが上がりどの教科も分からない箇所がだんだんと増えていく。 「あー。もうサイアク。せっかく石上君に教えてもらってるのに成績が下がる一方だよ」 夕涼みの風と空がしだいにオレンジ色に染まり始める、夕方の図書室。腰越と僕は唸り合戦と繰り広げていた。毎度毎度騒がしい図書室の常連に当直の図書委員もいつしか、注意をすることも無くなった。一方、和田塚さんは部活で夏休み中に大きな大会があるらしく、渡り廊下での個人練習の時間より全体練習の時間が多くなっていた。同じフレーズを演奏しては止まり、また同じフレーズを演奏する。それの繰り返しで、きっと指導している先生にも熱が入っているんだなって思った。 「晴香ちゃん。なんか部活大変そうだね」 腰越は音楽室がある棟を見て話す。ふと、以前に見た和田塚さんのメモ書きがビッシリ詰まった楽譜を思い出す。きっと今やってる曲も指摘された部分を音符が見えなくなるほど一生懸命メモ書きしてるんだろう。 「今年、中学生で最後の大会だから、いい結果を残したい」 中学三年に上がって、いつだかの昼休みの何気ない雑談の中で和田塚さんが言った一言。中学生最後という響きが妙に心に残った。頑張っている和田塚さんの姿に部活経験のない僕はただ、応援してるよの一言しか言えなかった。 「ところでさ、石上君は夏休みはどうするの?学校の図書室は閉まってるし」 腰越はくるっと振り向き僕に歩み寄る。 「そうだな。前まで通ってた塾の夏期講習にでも行こうかね。それか、自宅学習かな」 「あんたさぁ、行こうかねって、今年は受験生なのよ!ずいぶん余裕じゃない」 腰越が鼻息を荒しながら僕に詰め寄る。距離が近い・・・。いや僕だって余裕ではない。今この結果表を見て焦っているところなのに。 「それで、前に通ってた塾ってどこ?あたしもそこの夏期講習にいくから!」 もはや僕に自宅学習という選択肢はないらしい。しかたなく、ノートを一ページ破いて、簡単に地図を描いて、ほいと腰越に渡す。 「ん。ありがと」 腰越は簡単に描いた地図を受け取ると、ご満悦そうな顔で図書室を出て行った。・・・って今日はここで勉強しないんかい!  図書室が閉まる時間になっても、音楽室の明かりは灯りっぱなしで、ワンフレーズ演奏しては止まり、またワンフレーズを演奏しては止まることを繰り返していた。 「一緒に帰れたらいいのにな・・・」 きっと和田塚さんはこの時期がいちばん辛くて苦しいんじゃないかなと思った。せめて、なにか役に立てればと思ったけど、何も思いつかない。でも、なぜか今日は、和田塚さんを待ってみようと昇降口で暇をつぶす。(今思えばこれはだいぶキモいんじゃないかと・・・)  午後六時を回る頃、音楽室の電気が消えた。続々と吹奏楽部員が昇降口に向かう中、和田塚さんの姿が見えない。今日は休みだったのか・・・。いや、そんなわけがない。だって、前半は確かに渡り廊下で個人練習をしていたのだから。少し心配になって待っていると、和田塚さんはゆっくり昇降口に向かって姿を現した。いつもと少し様子が違うことに僕は気づいた。 「石上くん・・・」 それは蚊の鳴くような、今にも泣き崩れてしまいそうな声で僕を呼んだ。今ここで「どうしたの?」と訊いたらきっと、和田塚さんの堪えていたものが一気に決壊するのではないかと思ったので、意味もなくここに居た理由を説明する。 「図書館はいつも通り閉まっちゃったんだけど、どうしてもわからないところがあって、職員室に行って先生に直接教わってて、今僕も帰るところなんだよ。よかったら一緒に帰らない?」 和田塚さんは小さく頷いた。  先ほどの夕涼みはどこへ消えたのか、暗くなるにつれ蒸し暑くなった。そんな帰り道を僕は和田塚さんのペースに合わせてゆっくり歩く。和田塚さんは下を向いたまま、何も話さなかった。二人の間の沈黙が妙に苦しい。 「あのさ、和田塚さん」 「あのね、石上くん」 二人発した声は、ほぼ同時で、また一瞬、沈黙が流れたが「先にいいよ」と僕が言うと、和田塚さんは小さく頷いて公園の方向を指さした。 「あっちで話したい」 僕は頷いて、公園までついていく。  誰もいない夜の公園。街灯が照らすベンチに僕と和田塚さんは座った。和田塚さんは洟を啜る回数が増え、『泣きそう』というよりかは『泣いて』いた。 「石上くん・・・」 完全に震えた声で、助けを求めているかのように僕の名前を呼んだ。 「なんでも聞くよ。聞くことしかできなけど、言ってみな?どうしたの?」 その言葉に安心したのか、まるで迷子になった小さい子がパニックで名前も言えない状況のように嗚咽した。僕は和田塚さんが泣き止むまで、和田塚さんから話してくれるまで、背中をポンポンと叩き慰め続けた。  もう五分くらいは経っただろう。それでもまだ和田塚さんは上手く話せる状況ではない。今ここで誰かが通ったらきっと、僕が泣かせているように見えるだろう。それはちょっと勘弁してほしい・・・。和田塚さんの黒色のショートボブのサラサラとした髪が初夏の風になびく。今はただ、待つしかない。 「顔を上げて」 「いやだ。今、めちゃくちゃ酷い顔だから」 やっと話してくれた。これが本題に入るきっけかけになってくれればと僕は願った。 「あのね・・・」 掠れた声で一生懸命話す。 「今日、合奏で先生に怒られちゃった。前にも言ったところが、どうしてできないんだって。私はちゃんと、言われたところをメモしているし、そこの部分を何回も何回も個人練習で吹いた。それなのに、頑張ってるのになんで認めてくれないんだろうって。次回までに出来なきゃ、私のパートを他の子に代役で頼むからって。それも二年生の子に。もう私、わけが分からなくなっちゃって・・・」 和田塚さんはまた大泣きしそうな声だった。 「大丈夫だって、ほら前にも僕、言ったじゃん。和田塚さんは頑張ってるって」 「でもさ!・・・ごめん」 いきなり声を上げた和田塚さんに僕はびっくりしてしまった。風がまた僕と和田塚さんの間に沈黙の時間を運んでくる。 「それに、見切りつけられたわけじゃないじゃん。先生は『次回まで』で言ったんだろ?なら、まだチャンスがあるってことじゃんか。先生だって和田塚さんのこと、期待しているんだよ。絶対そうだって。きっと先生だって和田塚さんがあの渡り廊下で一生懸命個人練習している姿だって見ていると思うよ。じゃなきゃ『次回まで』なんてチャンスはくれないだろうし」 「うん・・・」 和田塚さんは掠れた声で返事をする。 「やっぱり石上くんはやさしいね。話してよかった」 「恐縮です・・・」 和田塚さんに少しだけ笑顔が戻ってきた。それだけで僕はものすごく安心した。 「あ、顔見ないでって言ったじゃん!」 慌てて自分の手で顔を覆い隠す。 「大丈夫だよ。いつもどおりかわいいよ」 今度はヘンな意味で沈黙が流れた。 「・・・ばか」 そのあと、和田塚さんの両親が公園まで迎えに来て、遅くまで何してるの!と僕も一緒に怒られた。和田塚さんはまた泣きそうな顔をしていたけど、大丈夫そうだった。そして家に帰って、今度は自分の両親にめっちゃ怒られた。踏んだり蹴ったり・・・。  夏休み早々、僕はエアコンの効いた塾の教室にいる。隣には腰越、そして後ろにはなぜか和田塚さんがニコニコしながら座っている。どうやら腰越がここの塾に僕が行くことを和田塚さんに伝えたらしい。夏期講習は午前の部、午後の部と二部構成で、どちらか好きな方を選択できる。午前中、僕は夏休みの課題を含めた自宅学習。和田塚さんは部活。腰越は睡眠学習をしているそうだ。腰越だけはきっと夏休みの後半に課題が残ったままで慌てるタイプだきっと。  夏期講習が終わると、僕たち三人は図書館へ行き、授業でやったところを復習して次回の予習もする。若干一名を除き、塾の小テストはだんだん点数が上がり、順位もそれなりに上位の方まで行けるようになった。本当に若干一名を除き。 「あ、そうだ。これ」 和田塚さんが僕に差し出したのは、吹奏楽コンクールのチケットだった。 「私たちは四日目に出場するんだけど、もし予定が空いてたら観に来て」 チケットを受け取ると、僕は必ず観に行くよと、忘れないようにチケットの四日目と書いてあるところに丸を付けた。 「晴香ちゃん。あたしの分は?」 「あんたは勉強しなさい!」 僕と和田塚さん、二人同時に言うと腰越は「えー」と言って三人で笑った。  八月の真ん中。今日は目覚まし時計よりもはるかに早く目が覚めた。早朝四時。この時間帯にもヒグラシの声が聴けることを初めて知った。(あとで調べたのだが、ヒグラシは夕方よりも、早朝の時間帯の方がよく鳴くらしい。)  今日は、和田塚さんにとってとても大切な日。中学生最後としての大会の日。なぜ僕がこんなにも緊張しているのだろうか。部屋の窓を開けて、大きく深呼吸。街はまだ目覚めていない。聞こえるのはヒグラシの合唱と新聞配達のバイクの音だけ。空は明るかった。夕方には所によりにわか雨があるかもしれないと、テレビの向こうのお天気お姉さんが笑顔で喋る。 「兄さん・・・」 静かにリビングへ向かったつもりだったが、起こしてしまったのかもしれない。小学生最後の夏休みを満喫している由貴が、寝ぼけながら冷蔵庫の麦茶を取り出して、グラスに注ぎ、一気に飲み干す。 「ごめん。起こしちゃった?」 「うーん。珍しいね。兄さんがこんな時間に起きるなんて・・・」 半分寝ているような口調で麦茶を冷蔵庫にしまう。 「ちょっとね。なんか、早く起きちゃって」 「そう・・・。私はまた寝る」 目をこすりながら、由貴はまた自分の部屋に戻っていく。あれは絶対ラジオ体操をサボる気満々だ。しばらくすると、両親が起きてきて、一緒に朝ご飯を食べて、父親を見送る。母親はただ「裕介がこんな時間に起きるなんて珍しい」と何かある度に言っていた。僕はそんなにネボスケキャラでもないと思うのだが・・・。あくまで自分の中では。  八時を過ぎる頃、僕は家を出た。由貴は不思議そうな顔で「兄さん、どこ行くの?」と訊かれたが、僕はちょっとそこまでと言って玄関の扉を閉めた。夏休みとは言えども、駅前は通勤や部活通いの高校生などそれなりに賑わっていた。普段電車に乗らない僕は、ICカードの残高不足で自動改札で足止めを喰らい、後ろのサラリーマンに冷たい目線で見られる。  都心と逆方向に進む京王線の車内は空いていた。新宿のビル群を抜けると電車は徐々に速度を上げていく。流れていく景色が僕には新鮮だった。今頃、和田塚さんはどんな気持ちでいるのだろうか。文化祭の出し物で、体育館の舞台で演劇をやったことがあるが、その時の緊張とは比べ物にならないくらい緊張しているのだろうか。和田塚さんたちの演奏が終わるまでは、僕が会場に来ていることを伏せていた方が余計な緊張をしなくていいのではないか。いろいろ考えている間に、電車は東府中駅に到着する。  東府中の改札を抜けると、おそらく応援に駆け付けた人達だろうか、僕の両親と同い年くらいの夫婦や卒業した学校のOB・OGだろうか、高校の制服を着た男女が府中の森芸術劇場に向け歩いていく。まだ午前中なのにアスファルトの照り返しが暑さを倍増させた。  この暑さで十五分歩くのは意外にも酷だった。館内に入ると冷房が利いていて、誰もが涼しいと第一声をあげる。大ホール・中ホールでそれぞれの部門で分かれている。ロビーには本日の進行表が大きな紙に貼られていて、どうやらうちの学校は大ホールの方で演奏開始まで約一時間ほどあるらしい。せっかくなので、他の学校の演奏を聴いてみたのだが、音楽に疎い僕は、すぐに飽きてしまう。かといって、ホールを出ても何もすることがない。僕は適当な座席に座り直しBGMのごとく、うちの学校の出番がくるまで、ぼーっと聞いていた。  一定のタイミングで二十分の休憩を挟む。その休憩後にいよいよ、うちの学校の出番がやってくる。舞台照明は暗くしてあるものの、舞台袖からチラチラとスタンバイしている様子が見える。演奏する側じゃない僕までもがこの会場内の緊張感に呑まれそうになる。休憩明けを知らせるブザーとアナウンスが終わると舞台袖から演奏者が舞台にあがる。椅子や打楽器の配置、譜面台の高さの調整などを手早く済ませ、指揮者の先生がOKのサインを出すと、舞台照明が一気に明るくなる。照明に反射した楽器がキラキラしている。一番後ろの右側に和田塚さんの姿を見つける。遠くてどんな表情をしているかまではわからないけど、緊張感は伝わってくる。学校名、課題曲、自由曲、指揮者の名前がアナウンスされると、一呼吸置き、指揮者が右手を挙げたタイミングと同時に全員が呼吸を合わせる。演奏開始だ。  一団体の制限時間は入退場含めて十五分。他の学校の演奏は長く感じたのに、うちの学校だけはやたら早く感じた。初めから終わりまで、僕はその演奏に引き込まれていた。(ただの贔屓かもしれないけど。)  結果発表は夕方頃になるというので、僕は会場を後にした。結果は今度の夏期講習の時にでも和田塚さん本人から聞けばいい。この時はそんな軽い感じで思っていた。  太陽が本気を出している真夏の真昼間。今日はこのコンクールを聴きに行くために、夏期講習を休んだのだが、間に合いそうなので夏期講習に行くことにした。教室内は涼しいし、僕自身受験生だということを忘れてはいけない。塾に着くと、お盆前だからか夏休みが始まった時より受講する人は少なかった。なんだかんだで、みんな余裕なんだなって思う。しばらくすると、腰越が「おっすー」といつもの調子で入ってきた。 「あれ、そういえば今日、晴香ちゃんの大会を観に行ったんじゃなかったっけ?」 「うん。行ったよ。うちの学校は午前中だったから、夏期講習に間に合った」 「ああ。なるほどね。んで、結果は?」 「夕方だって」 「へぇー」 そのあとすぐに塾講師は入ってきて、僕と腰越は目の前の課題を必死になって取り組んだ。 「じゃあ、今日はここまで。お盆明けに小テストを行いますので、復習をしっかりやっておくように」 塾講師が教室を出ると、僕と腰越は荷物をまとめて外へ出る。午後七時を過ぎようとしていた。今朝の天気予報は大外れで、夕焼けがきれいに見えるほど快晴だった。 「ねぇ」 腰越がいきなり僕の袖を引っ張る。 「ちょっと公園寄って行かない?話したいことが、あるかも?」 「なぜ疑問形?」 「いいから!」 気づけば僕は、腰越に拉致られるような感じで、公園へ強制連行。まぁ、これといって予定はないのだけれど・・・。 「はい、ここ座って」 ここの公園はかつて、和田塚さんを必死で慰めた公園。しかも、座ろうとしているベンチはまさかの街灯が照らすあのベンチ・・・。僕は言われるがまま、腰越の隣に座る。 「あの、さ。あれから晴香ちゃんとはどうなの?」 腰越からの予想外な質問に僕は腰越の顔を見る。そうすると、やべっ、単刀直入過ぎたと言わんばかりの顔をしている。 「ど、どうもこうも何も無いよ・・・」 「ふーん」 腰越は少し不満そうな顔をして、足をブランブランさせた。僕はなぜそんなに不満そうな顔でいるのか理解できなかった。 「あんなにチャンスを作ってあげてるのに・・・」 あまりにも小さすぎる声に、僕は聞き返すが、腰越は何でもないと立ち上がる。 「帰ろっか」 「はぁ?もう帰るの?」 「うん。だって別に裕介と晴香ちゃんに何も無いんでしょ?」 この時、腰越が初めて下の名前で僕を呼んだ。しかも呼び捨てで・・・。あまりにもナチュラルすぎて一瞬、気づかなかったけど。帰り道、たわいのない話をしたが、公園での会話以降、僕と和田塚さんの話題は一切出てこなかった。 「あたし、明日から家族旅行だから夏期講習に行けないからよろしく」 三差路の分かれ道、それぞれの家へ向かう途中腰越はそう言って手を振った。 「じゃあ、お盆明けの夏期講習で」 僕がそう言って手を振り返すと、腰越はいつものテンションで「うん」と笑顔になる。まったく、あいつは一体何なんだ・・・。  翌日の午前中、僕はいつものように自宅学習をしていると、下から母親の呼ぶ声が聞こえた。 「裕介。和田塚さんが見えてるわよ!」 「和田塚さん?」 僕は、なんだろうと玄関へ向かう。 「こんにちわ」 愛想良く、母親に挨拶をする和田塚さん。とりあえず、僕の部屋に招きいれると、母親は妙な笑顔でごゆっくりと僕に麦茶とお菓子を持たせた。母親よ。僕らは付き合ってないからな! 「ごめんね。いきなり押しかけて」 「いや、別に構わないけど、どうしたの?」 和田塚さんに「どうしたの?」って聞くのはこれで二回目だ。でも、あの公園の時よりかは少し穏やかな表情をしているから、そんなに深刻な話でも無いのかなって思った。 「男の子の部屋って初めて入ったから、なんか不思議な感じ。石上くんの部屋はきれいに片付いているんだね」 和田塚さんは部屋の中を見渡すと、ベッドに座った。  和田塚さんは、ふぅーっと深呼吸すると、声のトーンが少し下がった。 「昨日のコンクールの結果なんだけどね」 僕は期待と不安が入り混じる気持ちで、和田塚さんが次に発する言葉を待った。 〝泣きじゃくる〟  和田塚さんの今の状況は、辞書の説明書きをそのまま再現したようである。突然のことに母親と由貴もびっくりして、僕の部屋に駆け付けた。僕は和田塚さんのコンクールのことについて説明すると、母親は和田塚さんをそっと抱擁する。僕はただ何もできず、ただ自分の母親が和田塚さんを温かく抱きしめて落ち着かせている様子を見つめることしかできなかった。結局、その日は泣き疲れたのか、僕のベッドで和田塚さんは眠ってしまい、夏期講習は行かずに、お盆休みに突入した・・・。

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