秒針の音が一歩ずつ、正確に未来へと歩んでいく。罪もない時計の音になんで僕はこんなにも憎んでしまっているのだろう。この地球に生まれた全人類は、この〝時〟というものに逆らえない。例えば、好きなアーティストのコンサートが一週間先だとしても、自分勝手に先へと進められないし、好きだった恋人と別れてしまっても楽しかった時に戻ることはできない。この現実にネコ型ロボットでも居ない限りは。  僕はこの春、高校を卒業して社会人になった。先生や家族には大学への進学を勧められたが、十二年間にも及ぶ勉学というシガラミから解放されたかったし、大学を出たからといって、就職が保障されるわけでもない世の中だから、今後の人生に安定が欲しかった。 「なあ、石上。俺さぁ、思ったんだけど」 僕の隣で卒業証書の筒で自分の肩をリズミカルに叩く鵠沼がこれからは絶望しかないような口調で言う。 「なんで、俺たち男子校だったんだ?」 まだ二分咲きの桜は、風に揺られても花びらが舞うこともない。舞うはずがない。 「じゃあ、なんで男子校に来たのさ」 僕が質問返しをすると、鵠沼は一つ大きなため息をした。 「知らねぇ!」 鵠沼がそう言うと、恋とか青春とか全く考えてなかった中坊の時の俺ってアホだ。と意味もなく叫びながら走りだし、電柱三本を越えたところで盛大に転んだ。  僕の居た高校は、学力も中の上くらいで学費もそんなに高くない、ごく普通の私立高校で、進学するのも就職するのも生徒が自由に選択できる学校だった。まあ〝都内の私立男子校〟といえば響きはものすごく良いのだが・・・。僕がこの学校を選んだのは実にシンプルな理由で、『家から歩いても自転車でも通える』ただそれだけだった。両親からは安上がりで助かるけど。と半分呆れた感じで言われた。  体育会系の部活だった体格の良い連中は、ガラにもなく大勢で号泣していて、少し先では、さっき盛大に転んだ鵠沼が号泣していた。僕からすれば、どっちも違った意味で〝痛い〟と思った。  三年間、通い慣れたこの道を、もう歩かなくなると思うとちょっと寂しい。冬休み中に車の免許を取ってしまったので、自転車にも乗る機会は少なくなるだろう。僕の周りの環境が変わり始めると感じた春独特の空気。  家の玄関を開けると、仕事だからとりあえず出迎えに来ましたと言わんばかりの面倒くさそうな態度でネコのマカロンがニャーと鳴く。〝仕事〟を終えるとマカロンはそそくさとリビングの日当たりの良い窓際で丸くなる。テーブルには僕宛のハガキが一枚置いてあった。四月からお世話になる会社からの卒業を祝うメッセージが書かれていた。差出人には社長の名前が書いてあった。恐縮です。  部屋に入るともう二度と着ることは無いであろう制服を脱ぎ捨てた。新しい生活に期待と不安を抱きながら僕の短い春休みが始まった。そういえば、鵠沼の進路だが、彼は意外にも学力はトップクラスだったので、有名大学の医学部に進学することが決まったようだ。鵠沼に将来は藪医者だなと言うと、無言で尻を蹴られた。  学生生活最後の春休みというのは、とても退屈だった。新社会人の準備といっても別に一人暮らしを始めるわけでもないし、とりあえずスーツとか鞄とかビジネスに必要なものを揃えるくらいだった。友達に連絡を取っても新生活の準備に追われていて忙しいみたいだ。一人暮らしには憧れるけど、僕の就職先は電車で30分もあれば着いてしまう所にあって、一人暮らしをするような距離でもない。春の爽やかな風を感じながらベッドに寝転んでいると、マカロンが暇ならエサでもよこせと言わんばかりにニャーと鳴く。もうすぐ地面にお腹が付きそうなほどふくよかな体格をしているので獣医からはあまり食べさせないでくれと言われているため、マカロンの必死の抗議を軽く受け流す。時間が経てば諦めてリビングのいつものポジションに戻る。今日はそんな事がよく繰り返された。 「兄さん」 部屋のドアをノックして入って来たのは、妹の由貴だ。由貴は三つ年下で4月からは僕の学校よりちょっと遠い公立高校に通う。 「どう?似合う?この制服」 僕の前で一周くるりと回ってみせた。 「うん。高校生らしいよ」 由貴は昔から褒めてもらうと、ものすごく嬉しそうな顔をする。 「ほんとー!ありがとう」 由貴のごきげんは最高潮に達した。それもそのはず。由貴はこの学校の制服が着たくて中一の時からずっと努力して受験戦争を勝ち抜いたのだ。ここら辺の公立高校ではトップクラスで制服が可愛い。だから毎年、受験倍率は高い。一方、男子の制服はというと、ごく普通のブレザーだが・・・。 「楽しみだなー。学校」 僕の部屋で喜びの舞を続ける可愛い妹。 「小学生か!」 喜びの舞、急停止。 「もう高校生だもん!子どもじゃないもん!」 ああ、尊い。  休みの日ほど、時が進むのは早く感じる。一日何もしていないまま、夕方を迎えるとどこか損をしたような気分になる。カレンダーを見れば3月も終わりに近づいていた。今年は平年より気温が低めだからか、桜が満開になる時期が遅い。由貴は桜が満開の入学式になりそうだと喜んでいる。僕もそうなればいいなと思う。そろそろ教科書を処分したりと自分の部屋を学生モードから社会人モードに切り替えないと。と思った矢先に電話が鳴った。相手は、高校に入ってから互いに連絡しなくなってしまった、腰越渚という一人の女の子からだった。 「久しぶり。元気?」 相変わらずの明るい口調がどこか懐かしい。 「うん、元気だよ。久しぶり!どうした?」 僕の脚にマカロンが擦り寄せる。 「いや、部屋の整理してたら中学校の卒アルが出てきてさ。懐かしいなって思ってつい電話しちゃった」 一番最初の明るい口調より、少し声のトーンが下がったような気がした。腰越は少し間を開けると、続けた。 「あのさ、これから会えない?いつもの公園で」 別に断る理由も無かったので、適当な時間に近くの公園で落ち合うことにした。  腰越は家が近所で、小学校、中学校と一緒だった。学校では、明るく元気な女の子のキャラクターで周りにはいつも誰かが居た。けれども、僕と一緒に帰る時とか夜になると近所の公園に行って、腰越の悩みや心配事、弱音なんかを良く聞いていた。中学校の卒業式の時、僕は初めて腰越に男子校に行く事を告げると、泣いて怒って慰めるのが大変だった。高校に入って、三か月くらいは連絡を取り合っていたのだが、互いに高校生活が忙しくなると連絡も自然と取らなくなった。不思議なもので、家が近所でも腰越に会うことはほとんどなかった。だから、実に約三年振りくらいに会うのだ。  この時期の夜はまだ少し肌寒かった。あんまり待たせるのも悪いので集合時間より少し早めに行こうと思って家を出ると、玄関前で腰越が待っていた。 「久々だから来ちゃった」 少し照れた表情で僕を見つめた。3年振りに見る腰越は、あの時より少し大人っぽく見えた。女の子というよりかはお姉さんみたいな。 「なんか、大人っぽくなったね」 深い意味は無いつもりだったのだが、腰越はさらに照れている。 「そ、そぉ?変わらないよ。そういう裕介だって、大人っぽくなったじゃん。背も伸びてるし」 今更だが、僕の下の名前は裕介という。本当に、今更だが。  公園までの道のりは大した距離ではないのだけれど、互いに積もる話もあってゆっくり歩いたせいか長く感じた。誰も居ない夜の公園。僕と腰越はブランコに腰かけ軽くブラブラ揺らしながら、高校の時の出来事など話した。 「それで、わざわざ僕を呼び出すほどの話って?」 なかなか言い出しづらそうだった腰越に助け舟を出す。腰越はしばらく下を向くと深呼吸をした。 「あのさ、裕介は進学?就職?」 そう言えば、思い出話ばかりで、将来の話はしていなかった。 「僕は就職だよ。ここから電車で30分くらいの所にある会社」 少し風が強くなる。それでもまだ桜の花びらが舞うことはない。 「そっか・・・。おめでとう」 なかなか進まない話にお互いもどかしくなっていく。 「これはこれは、ご丁寧にありがとうございます」 僕は会釈すると腰越もつられて会釈する。 「実はね私、ドイツへ留学する事になったの。高校でね選択科目に外国語ってのあって、その中でドイツ語を専攻してて上位成績者にはドイツの大学で留学できる制度があって、私が見事に選ばれたの」 僕は、驚きのあまり何も言葉が返せなかった。 「だから、ドイツに行ったら四年間は日本に帰ってこないつもりなの。だからね、言っておきたい事があって」 腰越は下を向いて、足元にある小石を軽く蹴った。   四年後、またこの場所で会えたら    私と付き合ってください。私はずっと裕介が好きでした。   僕は今まで、腰越のあんな切なくて、でも言えたことにほっとしてる表情は見たこともなかった。あんなに素敵で美しい女の子はこの世で他にいるのだろうか。何か返さなくてはと口を開こうとすると、腰越は待ってと僕の口を塞いだ。 「返事は、4年後この場所で会えた時に聞くから、今は言わないで」 いつもの表情に戻った腰越は、明るく元気な女の子だった。 「帰ろっか」 そのアッサリとした感じは、さっきの空気が嘘みたいに思えてくる。 「あのさ、いつ出発するの?」 僕は腰越の背中に質問すると、腰越はゆっくり振り向いて 「あ・し・た!」 全てがいきなりすぎる…。  日に日に暖かくなる朝は、しっかり春の訪れを知らせてくれる。今日はいつもより早く目覚めた。いや、早く目覚めなければ後悔するような気がした。新聞配達のバイクが過ぎていった後、腰越の家に向かった。空はだいぶ明るくなっているのに、街はまだ眠っているみたいに人通りがない。腰越の家の前に近づくと大きなキャリーバッグを持った人のシルエットとそれを見送る二人のシルエット。大きなキャリーバッグを持ったシルエットは僕の存在に気づくと大きく手を振りながら、こっちに近づいてくる。 「あれ、裕介じゃん。どうしたの?こんな朝早くに」 腰越の目は輝いていた。 「べ、別に。朝の散歩だよ」 「じじくさ」 僕が手を差し出すと、腰越は小さな声で、ありがとうと言って大きなキャリーバッグを僕に渡した。近くの空港行きの高速バスのりばまで送る。遠くで小鳥の囀る声が聞こえる。 「昨日、言い忘れてたというか、将来の話の続きなんだけど」 誰も居ないバスのりば。腰越の声が響く。 「ドイツに行ったらね。医学を学ぼうと思っているんだ。原因不明の病を徹底的に分析して、原因を突き止めたらカッコイイじゃん?だから、研究して多くの人を助けたいなって」 なんとなく有名大学の医学部に行く鵠沼とは全く違う。腰越はちゃんとハッキリとした夢を持って、医学の道へ進もうとしている。なんだろう、なんかものすごく〝美しい〟と思った。 「あのさ、頑張れよ・・・」 「うん」 そんな短い言葉しか出ない僕が、すごいもどかしい・・・。もっと何か良い言葉が出てこないものか。  それから、数分もしないで空港行きのバスはやってきた。僕は腰越の荷物をトランクルームに入れてあげて、忘れ物が無いか確認した。 「渚!」 たぶんこれが、彼女を下の名前で呼んだ最初の時だったと思う。びっくりした表情で振り向いた彼女に、何故か僕は気づいたらキスをしていた。そして、何事もなかったかのように、バスは定刻で出発していった。バスのりばに残された僕は、何か夢を見ていたような、そんな風に思えて唇に触れる。

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