僕はこの街をただひたすら走っていた。僕の責任かもしれない。僕のせいで腰越はずっと悩み続けていたのかもしれない。だとすれば、僕は取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったのかもしれない。夢中で走る中でもそんなことばかり考えてしまって、頭の中がグルグルしていた。一方、慌てて駆けだした僕を追いかけようと、後ろから晴香が必死に僕を呼ぶ。  誰も居ない夜の大きな噴水がある公園。一足先にスタミナ切れになった僕に、晴香が追いついた。お互い息が切れていて、最初は何も言葉を発せなかった。やがて、暑くなった体を冷やすかのように心地よい風が吹いてくると晴香は今にも泣きそうな声で、それでもって力強い口調で言った。 「裕介くん。落ち着こうよ!ねぇ・・・。落ち着いて!」 晴香は僕に縋りつくように抱きしめた。 「渚ちゃんのお母さんが、命に別状はないって言ってたし、大丈夫だから。きっと」 僕は、力強く抱きしめる晴香に落ち着きを取り戻していた。晴香は震えている。そうあの中学の時、公園で泣いていた、あの時みたいに・・・。 「落ち着くまで、少し話そうか」 僕はそう言うと晴香は小さく頷いた。  最初は何から話そうか考えたけど、やはり今の気持ちを話すことにした。晴香は僕の言葉を一つ一つ、丁寧に聞き取るように頷いていた。 「大丈夫だって。渚ちゃんはそんなことで自殺を図るような子じゃないって、私は知ってるよ。きっと何か偶然的におきた事故だって」 そう言って、晴香は携帯を取り出し、どこかに電話を掛けていた。 「ここからすぐの病院だって」 晴香は腰越のお母さんに搬送先の病院を聞いていたようだ。ただ、今日はまだ意識が戻っていないから、お見舞いは控えて欲しいとの事。意識が戻ったら、一番に連絡してくれると言っていたそうだ。 「帰ろ」 晴香はいつもの笑顔で言った。 「うん」 手を繋いで歩く帰り道。手が震えていたのは僕なのか、晴香なのか分からなかった。こういう時、鵠沼が居たら、どう明るい雰囲気に持っていくのだろうか・・・。 「おい、マジかよ?」 次の日の夜、いつものように鵠沼が家に遊びに来たので、腰越の事を話した。一瞬、鵠沼も取り乱したが。すぐに落ち着いた。やっぱりすげぇよ。鵠沼は・・・。俺が現役の医者なら渚ちゃんのことなんて、すぐに治せたのにと涙ながらに言うと僕はなんて情にアツい人なんだって思った。隣で話を聞いていた由貴もこの時はさすがにツッコむこともなく、静かに泣いていた。 「そうだ、完全復帰したら、お祝いパーティーやろぜ。渚ちゃんが主人公のパーティーはこれで二回目だな」 鵠沼がヒーローに思えた。僕たち三人は鵠沼の言葉に顔を上げ、大いに賛成した。 「またサプライズでいく?」 「うーんどうだろ。二度も驚くかな・・・」 鵠沼から出てくる提案に僕たちは胸を躍らせた。でも、僕の心の片隅には、やはり少しばかりの責任を感じていた。復帰したら僕はまず、腰越に謝ろうって決心していた。許さないと仮に言われても、それでも僕は謝ろうと思った。  あれから、どのくらいの時が過ぎただろう。未だ腰越のお母さんからの連絡は来なかった。何度か腰越の状態を確認しようと電話を試みたけど、返ってそれが腰越のお母さんにプレッシャーを与えてしまうかもしれないと、根気よく連絡が来るのを待った。鵠沼はいつもと変わらない素振りを見せて、いつでもパーティーが出来るように計画を練っていた。  秒針の音が一歩ずつ、正確に未来へと歩んでいく。罪もない時計の音になんで僕はこんなにも憎んでしまっているのだろう。この地球に生まれた全人類は、この〝時〟というものに逆らえない。物語は主役が居なければ成り立たない。 「まあ、いいじゃないか。計画する時間がその分増えるんだから、最高のパーティーができるさ」 鵠沼はいつもそう言って僕たちを励ましていた。そんな時だった。由貴が少し恥ずかしそうに何か言おうとしていた。 「ねえ、鵠沼君」 由貴が初めて鵠沼の事を『セクハラ』ではなく『鵠沼君』と言った。そして全員がそれに沈黙する。 「ねえ、裕介くん」 晴香が手招きをして廊下に連れ出す。僕は何のことかさっぱり分からないまま、晴香と廊下へ出た。 「なに?どうしたの?」 小声で晴香に聞くと。 「この、鈍感」 わき腹を突かれた。晴香はリビングのドアを少し開けて、二人の様子を伺っていた。 「あ、あのっ。く、鵠沼君!」 「なんだよ。由貴ちゃんがいきなり鵠沼君だなんて。すげー違和感なんだけど」 由貴の顔がだんだんと赤くなっていく。さっき晴香に鈍感だと言われたけど、その鈍感ですらわかる由貴の表情。これは間違いなく、恋する女の子の表情だ。そして、勇気を振り絞って告白する女の子の顔だ。 「そ、その・・・きです」 「え?」 「だから!」 由貴は照れ隠しで声を上げた。 「鵠沼君のことが好きです。・・・好きなんです。好きになっちゃったんです!」 見事な三段活用でよく言った。我が妹よ。僕が知る限り、由貴の初恋だ。そしてしばらく沈黙が続いた後、鵠沼が言葉を探すように、口を開いた。 「・・・俺で、いいのか?」 「そうじゃなきゃ・・・。告白なんて・・・。しない・・・」 由貴は下を向いたまま、今にも泣きそうな声で言った。 「俺、セクハラだぞ?」 その返しに笑いそうになったが、今は真剣な場面。我慢しよう。 「セクハラだけど、違うの!私は、鵠沼君の優しさに、誰にでも優しい鵠沼君が好きになったの!」 由貴は今にも泣きそうだ。でもここは兄の出る幕ではない。見守ることしかできない。 「そっか」 鵠沼はそう言うと由貴に手を差し出した。 「顔を上げて」 「いやだ。泣きそうで顔がぐちゃぐちゃになりそうだから」 「まあ、そう言わずに」 由貴が顔を上げた瞬間、鵠沼は由貴をそっと抱きしめた。それは、鵠沼自身の優しさが滲み出るような温かい抱擁に見えた。 「末永くよろしくお願いします」 鵠沼の返事に由貴の堪えていたものが一気に解き放たれた。僕と晴香は廊下で小さく拍手した。 「ねえ裕介くん。このまま二人きりにしてあげて、私たちは寝ましょうか」 「そうだね」 「やだ、裕介くん。なんで、あんたまで泣いているのよ?」 僕は晴香に言われるまで気づかなかった。たぶん妹の初恋が実ったことが僕自身も嬉しかったのだろう。晴香は「もう」と言って微笑んで、二人で寝室に向かった。遠くのリビングで二人の笑い声が聞こえる。良かったな。由貴。 「おーい。裕介、晴香ちゃん・・・って、なんだ寝ちまったのか」 「じゃあ、私たちも帰ろ?私の事、送ってってよね」 「もちろんだよ」 寝たふりをしていた僕と晴香は、互いに顔を見つめ合って微笑んだ。それからというもの、毎晩のように家に来るようになって、キッチンには晴香の隣に由貴が立つようになった。由貴いわく、花嫁修業なんだとかで料理を覚えたいのだそうだ。その間、僕と鵠沼は相変わらずのくだらない話で盛り上がる。ただ、由貴はもう何かあれば「兄さん」ではなく「鵠沼くん」と呼ぶことが多くなったことは少し寂しい。 「はーい。出来たよ」 由貴の明るい声で決まった席に座る。 「今日は、ほとんど由貴ちゃんが作りました」 晴香がニコニコしながら言う。 「由貴ちゃんのスペシャルカレー」 実は、妹の料理は今日が初めて。妹の成長にお兄ちゃんは嬉しいよ。うん。 「隠し味はニンニクと板チョコ」 それを聞くとミスマッチに思えるが、食べてみれば意外にも美味しい。どこで覚えたのだか、実家でも晴香でもない、全く新しいおいしさだった。 「本当に私はアドバイスしただけなの」 晴香はそう言って由貴のカレーを絶賛した。 「由貴ちゃんは料理の才能があるな」 「えへへ」 鵠沼と由貴がイチャイチャすると、恋人同士だとわかっていても、なんか腹が立つ。 「なんだ裕介。妹に妬いてるのか?」 鵠沼が煽る。 「ああ。そうだよ。僕の可愛い妹にセクハラ男がカレシだもんな」 「兄さん、キモイ」 「ガーン」 晴香がアハハと笑う。穏やかな雰囲気が漂う中、晴香の携帯が鳴った。誰もが待ち望んだ腰越のお母さんからの連絡だった。 「あ、もしもし。はい・・・。わかりました」 晴香が電話を切ると、嬉しそうな表情で言った。 「渚ちゃん。意識を取り戻したって」 一同はおぉ~と声を上げた。その後、晴香が続けて何か言おうとしたところで、鵠沼が割り込んで、明日お見舞いに行こうと言い、結局この四人でお見舞いに行くことにした。晴香の曇った表情が引っ掛かるが、晴香自身もまあいいや、みたいな感じになっていた。  気づけば、夏も終わりを告げるような時期になっていた。とはいいつつも残暑は厳しい。昼間はまだセミが鳴いているし。ただ、ちょっと前のようなイヤなジメジメ感は無く日が沈む頃には鈴虫の声も聞こえるようになった。噴水のある公園をカップル同士、仲良くてを繋いで歩く。あの時、震えていた晴香の手も今日は震えていなかった。 「あのさ」 僕が口を開くと、みんなが振り向いた。 「全員で腰越の病室に入る前に、僕一人だけ先に入ってもいいかな。腰越に謝りたいことがあって」 鵠沼あたりから、そんなのずるいとかみんな一緒のほうがよくね?とか言うかなって思っていたけど、あっさりOKしてくれた。晴香は事情を知っているし、他の二人は深くは聞かなかった。やっとだ、やっと謝れる。そして、僕は晴香と末永く幸せに暮らすことを誓うんだ。そう思ったらヘンに緊張してきた。  面会の時間まで、少しあったので日陰のある公園のベンチで少し休むことにした。僕は晴香を、鵠沼は由貴をそれぞれ見つめている。第三者の目からすれば、バカップルだと思われているだろう。不思議なことに両カップルは互いの大事な人とキスをしていた。片方の男女は薬指に指輪をしているが、もう片方の男女は指輪をしていない。ただそれだけの違い。 「そろそろ行こうか」 晴香がそう言うと、みんなベンチから立ち上がり、病院へと向かう。  大きな噴水のある公園から病院までは歩いても五分くらいしか掛からないところにある。この残暑で早く涼みたいという気持ちが、大通りの信号を長く感じさせる。信号を渡れば目の前に大きな病棟が見える。昼間ということもあってか、病院内に入ると外来診療の患者でごった返していた。受付で面会の手続きを済ませると、腰越の居る病室の番号を案内された。エレベーターで6階まで上がり、そこのナースステーションでまた手続きをする。なんとも面倒なシステムだ。数年前の世界的疫病の流行を機に手指の消毒や検温は必須事項になっていた。早く会いたい僕にとっては面倒で鬱陶しかった。 「じゃあ、先に行ってくるね」 「あ、あの裕介くん」 呼び止めた晴香に僕は振り向く。 「あ、その・・・。何でもない」 晴香はそう言って、また曇った表情を見せた。数分後、晴香が表情を曇らせた理由に気づくことになる。  病室は角部屋の個室で廊下の名札プレートには腰越渚様としか書いていなかった。部屋の中で話し声が聞こえたので少し待つことにした。そして、数分後には病室から出てきたおそらく親戚の人だろうと思われる人に軽く会釈をして深呼吸。一旦、心を落ち着かせて扉をノックする。 「どうぞ」 中から腰越の声が聞こえた。ガラガラと引き戸を開けると、爽やかな風が病室を駆け巡った。 「腰越、良かったよ。意識が戻って。あのさ僕。腰越に謝らないといけないことがあって、その今回のこの事故の原因がもし僕の事で悩んでいたのだとしたら、本当にゴメン。あの時の約束は叶わなくなっちゃったけれど、僕は友達として腰越の事が好きだし、これからも友達でいて欲しい。・・・って都合のいい事ばかりしか言ってないよね。僕。あはは。もし、何か困ったことがあったら、僕に相談して。その時は僕が全力で支えるから!」 僕は深々と頭を下げた。一方的に言いたいことを言っただけで何の詫びにもなっていない。やはり、ダメなのか腰越はただずっと空を眺めているだけだった。感情が何一つ無いまま。それがどこか違和感を覚えた。  腰越はゆっくりと身体を僕の方に向ける。それがどこか美しくて僕はただそれを見ていた。そして、やはり無表情で。そして、ゆっくり首を傾げ、僕をじっと見つめる。 「君は、誰?」

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