部屋のカレンダーをめくると、一か月先の三月十二日に大きな赤丸がしてある。そしてそこには太字で〝渚ちゃん帰国〟と書いてある。まあ、言うまでも無いが、これは晴香が元気よく書いた字だ。そして、それはあの『約束』の日でもある。まだ、この時の僕はその『約束』を忘れていた・・・。  四年という歳月は、あっという間に過ぎた。晴香と同棲し始めた時は、お互い遠慮しているというか、「住む」というよりかは「合宿」という言葉が当てはまっていた。今はもうすっかり、家事の役割分担も自然に決まっていた。休日になれば二人でいろんな所へ出かけてみたり、お互いの実家に顔を出したり、由貴が親に叱られて避難しに来たり。何気ない日常を幸せに感じている。あ、実は昨年、僕と晴香はめでたく結婚した。本当は晴香が専門学校を卒業した時と同じタイミングで考えていたのだが、あのオリンピックを延期させ、世界的に大流行させた未知なる疫病のせいで、僕たちの財政もかなり響いちゃって、やっと落ち着いたところで、もう一年近く時が経ってしまった。それと、マカロンが今年の正月に、由貴に看取られながら息を引き取った。老衰。まあ、十三年も生きれば長生きした方だろう。実家の仏壇には爺様と一緒にマカロンが眠っているそうだ。 「兄さん。聞いてよー。お母さんが・・・」 大学生になったはずの妹は僕の前で小学生みたいな愚痴をこばす。それを晴香が微笑みながら見守る。 「お前、もう大学生だろ?そんな、子供みたいなことで・・・」 「だって、だってぇ!!」 泣きながら喋るもんだから、上手く聞き取れない・・・。 「まあまあ、とりあえず、落ち着こ?ね?」 「義姉ねえさーん」 晴香は優しく由貴を抱きしめる。いつものパターンだけど、時々ふと、ずっと前に母さんが晴香の事を抱きしめた時のことを思いだす。そして、由貴をあやすのがとても上手い。将来、僕との間に子供ができたら良い母親になるかもしれない。  由貴が家に来た日は由貴も一緒に夕飯を食べる。晴香の作るごはんは母親よりも美味しいらしく、そのことを口止めされているが、いつか母さんに言ってやろうと思う。まあでも、確かに晴香のごはんは美味しい。 ピンポーン  突然インターホンが鳴る。この時間ならだいたい来る奴は分かっている。 「うーす」 現れたのは鵠沼だった。僕は晴香との結婚があまりにも嬉しくて、つい鵠沼に話をしたら、それから週三日のペースで僕の家を訪れるようになった。 「あ、鵠沼くん。いらっしゃい」 晴香が笑顔で出迎える。 「おぅ晴香ちゃん。今日も可愛いね」 「あ、ありがとう・・・」 そこで、晴香が照れるもんだから、鵠沼は調子に乗る。 「おい鵠沼、セクハラだぞ!」 「るっせぇーなぁ、裕介はいつもいつも。俺の挨拶みたいなもんじゃねぇか。なぁ、由貴ちゃん」 「きもい」 由貴のサヨナラホームラン。よくやった。鵠沼は残念そうなため息をついて、ソファーに座ると「こっち来んな!セクハラ!」と由貴の罵声が聞こえた。 「そういえばさ、来月だろ?その、裕介の中学の時の同級生の子が帰国するのって」 以前、鵠沼に腰越の事を話したことがあった。そうしたら、帰国する日はみんなで祝ってやろうよって、鵠沼が提案してくれた。会った事もない人を祝える鵠沼はすごいというか優しい奴なんだなって思った。 「そうなのよ。渚ちゃんって言うんだけどね。すっごく可愛い子だよ」 キッチンから鍋を運びながら晴香が笑顔で言った。今日はカレーらしい。 「って、ことはあれか?裕介はその渚ちゃんって子と晴香ちゃんとフタマタしてたわけだ。それで、そのフタマタがバレちゃったからあの高校に逃げて来たわけだ」 「ちっげーわ!セクハラへっぽこ探偵」 「おいセクハラ、それだと、今、兄さんと義姉さんは結婚していないと思うけど」 由貴刑事の鋭い指摘(普通そういう考えになるが)が入って、セクハラへっぽこ探偵は見事に撃沈した。 「あはは。まあまあ、カレー食べて元気出しなよ。鵠沼くん」 「晴香。鵠沼を甘やかすなよ」 「そうよ。義姉さん。甘やかすな危険。だよ」 「人をトイレ洗剤の注意書きみたいに言うな!」 賑やかな夕食。こんな日がずっと続いていけばいいのにと思う。  夕食後は、何をするわけでもないが、みんなで時間が許す限りダラダラと過ごした。鵠沼は腰越のお帰りパーティーの段取りをいろいろ提案し、晴香がそれに頷く。鵠沼は高校の時から遊びやイベント事の計画立てが、ものすごく上手い。遠くへ遊びに行く時は、電車の時間や乗り換え、万が一電車が遅れた時の代替方法まで完璧に計画を立てる。あれは一つの才能だと思う。きっと旅行会社とかが向いているのだろうけど、彼は断じて医者になることを諦めなかった。そして、晴れて今年の春、医大を卒業するのだそうだ。けれども、まだ勤務先の病院は決まっていないらしく、今年一年は就職浪人なんだそうだ。医師不足と世間では騒がれているが、医師の道も狭き門なんだなって思う。 「ところでさ、ふと思ったんだけど」 僕が口を開くと、鵠沼が振り向く。 「鵠沼はどうして医者になりたいの?専攻は?」 鵠沼はしばらく考えて、深呼吸をする。 「俺は外科医になりたいんだ。整形外科とかね。ほら、整体マッサージとかできたら、女性に触り放題じゃん?」 「動機が不純」 「サイテー。セクハラ」 晴香まで引いてる。 「うそうそ。冗談だよ!俺さ、小学校の時、サッカーやっててさ。よくケガしててさ。その時よく通っていた接骨院の先生がさ、とても優しくてさ。治療だけじゃなくて、いろんな悩み事とかも聞いてくれてさ。本当に良くしてくれて心の底から嬉しかったんだ。けれど、その先生が俺が中学の時に突然亡くなっちゃってさ。それ以来、あの接骨院は後継ぎも居なかったようで、廃院になっちゃったんだよ。だから、いつか、同じ場所で俺が接骨院を開業させたいなって思ったんだよ。本当にただそれだけ」 「素敵な夢じゃない」 晴香の目は輝いていた。鵠沼とは三年間も一緒に居たが、こんな話を聞くのは初めてだった。なりたいものがあって、それに全力で突き進む鵠沼の姿はカッコイイって思った。それに比べて、僕はどうだろう。ただ何となく高校を卒業して、何となく就職してって惰性でここまで来て、なりたくてもなれなかったという挫折を知らないまま生活している。少し劣等感を感じる。 「まあ今年はプーさんだけどな。はは」 鵠沼はきっと知らないところで、ものすごく悔しくて泣いていたのだろう。その笑顔に少し覇気がなかった。 「お、悪ぃな。俺の話で少し、しんみりしちゃったな。よし、気を取り直してパーティーの計画を練るぞ!」 そう言うと鵠沼はいつもの笑顔とハイテンションに戻っていた。  お帰りパーティーはどうやら僕の家で行うらしい(家主に拒否権はない・・・)。コスト的ににどこかのレストランとかは諦めた。ついでに僕と晴香の結婚報告も兼ねる意味もある。参加メンバーは主役を除いて、僕と晴香、鵠沼と由貴。最初は中学の同級生で連絡先を知っている人を片っ端から呼ぶ提案もあったが、この狭い部屋にそれだけの人数を収容できるキャパがないということでそれは却下した。由貴は初対面だけど、大丈夫かなぁと不安がっていたが、まあ晴香もいるし大丈夫だろう。とりあえず、帰国の日は腰越が羽田空港に到着する時間を晴香に連絡することになっているらしい。なのでその時間に合わせて、僕と晴香が迎えに行く。そのあとそのままこの家に直行してパーティー開始という段取り。僕と晴香が迎えに言っている間に鵠沼と由貴で会場造りをする。この人選にやや不安なところもあるが、まあこの人選が妥当だろう。鵠沼と由貴と腰越はお互いの事を知らないわけだし。 「あと二週間かぁ。楽しみだな」 晴香はカレンダーをめくっては嬉しそうにしていた。 「じゃあ、俺。そろそろ帰るわ」 時計の針は夜十時を指していた。楽しい時間というのは本当にあっという間で、少し物足りないような感じもするが、それがちょうどいい。僕と晴香は玄関まで見送ると鵠沼はまた近いうちに遊びに来ると言って、玄関の扉を閉めた。 「兄さん」 奥で由貴が少し寂しそうな声で言った。 「兄さん。あのね。今日、泊まってもいい?」 「うん。泊まっていきなよ。もう遅いし危ないから」 僕が言う前に晴香が答えた。 「よかった~。ありがとう。あ、もしかして夜のお楽しみの邪魔だったかな?」 由貴がニヒヒと笑う。晴香はその言葉に頬を真っ赤にしている。 「我が妹よ。あのセクハラへっぽこ探偵に似てきたな」 「兄さん。それだけはマジやめて!非常にきもい」 三人で一斉に笑った。  翌日の朝は、春の気配を感じさせる、心地良い日差しと爽やかな風が部屋の中を包み込んだ。どうやら由貴は朝早くに帰ったようだ。 「あ、裕介くん。おはよ」 「おはよ」 目覚めのキスをする。幸せだ。いつまでもこの常態が続いて欲しいなって思う。たとえ、子供が出来ても。  今日は珍しく、特に何もすることがない休日。せっかくなので、加藤さんのところへ行くことにした。 「そういえば、加藤さんって僕らが結婚したこと、知らないよね?」 「うん。たぶん。しばらくあの楽器屋さんにも行ってないし。・・・って考えるともう三年くらい行ってないんだ、あの店」 揺れる電車の中で時代の流れを感じていた。何気なく流れゆく景色を見ていたけれど、初めて加藤さんの店に行った時と今とではきっと何かが変わっているのだろう。よくクイズ番組でやっている「アハ体験」みたいに。  御茶ノ水駅に着くと、駅舎は新しくなっていた。あまりの変化降りに一瞬戸惑った。普段仕事ではここら辺も来るけど、車でしか移動しないし、御茶ノ水駅が新しくなっていたことなんて知るはずもなかった。けれども楽器店街を歩けは、加藤さんの店はあの当時のままそこにあった。加藤さんは、僕の姿をすぐに見つけ、近寄っては肩を組んだ。 「おおう、久しぶりじゃねぇか!元気だったか?」 一度会っただけなのに、すごい記憶力。すげぇな、この八時二十分眉毛は。 「おお!和田塚さんも久しぶり」 「はい。お久振りです。加藤さん。それと、私、もう和田塚じゃないんです」 晴香はそう言って、左手の薬指を見せた。 「ええ~。マジか!相手は?」 「今、加藤さんが肩組んでいる人です」 分かってやっているのか、少し力が入って、ちょっと痛い・・・。 「やるじゃねぇか」 なんかこの人、鵠沼と同じ〝ニオイ〟がする。 「まったく。良いよなぁ君たちは。俺はもう三十代も後半だっていうのに、結婚どころか彼女のかの字もないし」 八時二十分の眉毛はキープしたまま、唇を尖らせた。でも、加藤さんの口調からして、僻んでいるわけではなく、むしろ僕たちを心から祝福している感じだった。 「まあ、ゆっくり見ていきなよ。俺はちょっと裏で仕事してくるから」 加藤さんはそう言って、裏へと入って行った。  今日は特に何か買う目的でこの店に来たわけではなく、ただ晴香が加藤さんに挨拶したいだけに来たようなもの。でもせっかくだからと、晴香は書籍コーナーでいろいろ見て回った。 「裕介くん。これ見て!」 晴香が僕にさしだした本は、かつてこの店で晴香が買った楽器リペアの本。四年も経つと、この本でさえ懐かしく思う。 「結局、私は加藤さんみたいに楽器屋さんにはなれなかったけどね。でもね、楽器屋さんになる夢よりも、もっと最高に素敵で幸せな道があったから、私はそれでじゅうぶん満足なんだ!」 晴香は笑顔で言った。そう。晴香は楽器の専門学校を卒業してすぐ僕と結婚したから、就職という道は選ばなかった。彼女いわく、仕事と家事の両立は出来ないから、専業主婦を選んだそうだ。一応、楽器リペアの資格もあるし、この先子供が出来て、育児が落ち着いたら楽器屋の夢をかなえようかと考えているらしい。その夢を叶えるために僕は、いっぱい調理器具を売って、メンテナンスしなければならない。  帰りの電車の中、流れゆく景色は、一年遅れで開催したオリンピックの賑やかな雰囲気が嘘のような日常を取り戻していた。僕たちが年寄りになる頃に、また日本でオリンピックを開催して欲しいななんて、思っていると、晴香が僕の肩に寄りかかる。 「今日はありがとう」 なにもお礼されることはしていないのに、晴香はいつもありがとうという。だから僕はそっと晴香を抱き寄せる。僕たちの指輪が、窓越しの夕日に反射して、キラキラ輝かせながら。

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