ドイツで最後に見た空は、とても綺麗な青空だった。たしか、初めてこの国に来た時も今みたいな青空だったかもしれない。あたしはそれよりも、異国の地での生活に期待よりも不安の方が大きかった。ちょっと話し掛けようにも、当然日本語なんて通じないし、街の看板も日本語ではないし。その時に比べたら、今はどうだろう。空港へ向かうこの電車の広告や案内表示、車内アナウンスまですべてが分かる。四年の間にこんなにも成長できたんだとちょっと誇らしげになる。 今空港に向かってる。日本までまだまだだけど、すっごくワクワクしてる。  晴香ちゃんにメッセージを送る。ああでも、今日本は夜中かな。だとしたらちょっと迷惑だったかな。  電車はゆっくり空港のホームへ進入した。四年間お世話になったこの地にお別れの時だ。ターミナルゲートをくぐると、職員が検温と消毒作業を一人ずつ行う。数年前の世界的に流行した疫病は今でも少数だが、感染者が増えている。ワクチンや薬も出来てはいるが、感染対策は欠かせないそうだ。  保安検査場を通り、ラウンジで一人、飛び交う飛行機を眺める。結局、あたしはドイツにまできて、未だ進路は確定していない。本当にただ、留学制度を使って四年間滞在したって感じだ。とりあえず外国語教員の資格は取ったから、教師にでもなろうかな。それもダメなら実家でドイツ語教室でも開くかな。 「ナギサさんは、カレシは居るんですか?」 いつだか、大学の同級生(男)に聞かれた。その人は、地元の人で日本が大好きらしく、よくあたしに話し掛けてくれた。 「カレシではないけど、好きな人は居るよ」 あたしはなぜだか、この時はバカ正直に答えていた。 「オォー。それはミノるといいですネ」 微笑みながら言った彼の表情は、とても優しかった。そして、その笑顔は誰かに似ていた。そう、裕介。あたしは今さっき見せた彼の微笑みに裕介を重ねてしまったのだ。 「裕介、元気かな・・・」 着陸した飛行機が所定のゲートに停まり、羽を休める。降りてくる人は今、どんな気持ちでここへ来たのだろう。四年前のあたしを思い出しながら人の流れを見ていると、なぜだか笑えてくる。 うん。わかったよ~。私もすごくワクワクしてる。あ、それと当日は石上くんと一緒に迎えに行くから、よろしく。  晴香ちゃんからのメッセージに、あたしは心から叫びそうになった。裕介が迎えに来てくれる。あたしはそれがものすごく嬉しかった。この文面から察するに、晴香ちゃんと裕介はきっと再会して、連絡を取り合っているのだろう。それはそれで良かったじゃないか。中学の時、裕介があたしに初めて晴香ちゃんの事が好きだと言った時の顔を思い出すと笑えてくる。  ラウンジに東京行きの飛行機が搭乗開始したとのアナウンスが流れる。どうやら本格的にこの地を離れる時が来たようだ。そうだ、いつか結婚した時の新婚旅行はここにしよう。その時、隣に居るのは裕介だといいな。ペラペラなドイツ語で裕介を驚かせてやるんだから。 ★ 「当機は間もなく羽田空港に到着いたします」 CAさんのアナウンスに目が覚める。いつの間にかあたしは眠ってしまっていたようだ。飛行機はゆっくり降下を続けながらフワフワと揺れる。窓を覗けば太平洋の上なのか、きれいな海原が見える。もう少し早く目が覚めていたらきっと、富士山が見えていたのだろう。ちょっと残念。  飛行機はゆっくり旋回を繰り返し、気が付けばもう滑走路に着陸する寸前まで来ている。あたしはやっと帰ってきた。そして、あともう少しで晴香ちゃんと裕介に会える。そう思うとワクワクが止まらなくて、一秒でも早く飛行機から降りたかった。やがて、飛行機が止まるとシートベルトのランプが消え、乗客は一斉に立ち上がる。  あたしがドイツへ行く時には、壁一面にTOKYO2020だらけの広告だったのに、今ではもう有名な企業の宣伝や旅行関連の広告に戻っていた。 「オリンピック、裕介と観たかったな・・・」 コンベアから出てくる荷物を待つ間、無意識につぶやく。どうしちゃったんだろう。あたし。ドイツに居た頃は裕介の事なんてこんなに想っていなかったのに。もうすぐ会えるとなるとこんなにも胸が苦しくなるなんて・・・。一体、あたしは、裕介の前でどんな顔をしたいい?荷物を取り出し、入国(帰国)審査を通り、到着ゲートを出る。 「渚ちゃーん!」 懐かしい声に振り向くと、晴香ちゃんと裕介が大きく手を振っていた。どうしよう、たまらなく嬉しい。泣きそう。あたしは泣きそうなのを堪えるために、晴香ちゃんに抱き付いた。 「おかえり」 渚ちゃんはあたしの耳元で優しい声で言った。そして、あたしは奥で微笑む裕介を見る。 「うん。ただいま!って裕介じゃん!超久しぶり!」 本当は、裕介に抱き付きたい。けれど、ちょっと恥ずかしくて、『相変わらず』の口調であたしは言った。裕介は「おぅ」と一言。その姿は四年前より少し大人っぽく見えた。 「裕介、少しオッサンになった?」 「うるせぇ!」 ああ、この反応は昔のままだ。懐かしい・・・。  モノレールに揺られ、四年振りの東京の景色を見る。オリンピック開催時はここら辺もすごい賑わいだったのだろう。今はもうそんな面影は無いけれど。 「渚ちゃんはウイルス大丈夫だった?」 ふと晴香ちゃんが話し掛けた。 「うん。あたしは大丈夫だったよ。ピークの時は一切部屋から出るなって、寮母さんに怒られたけど。日本は感染者数とかドイツに比べて全然少ないから、日本に帰りたくなったよ。マジで」 そんな他愛もない話を晴香ちゃんとしながらも、あたしの視線は裕介にあった。あたしらの話を横で静かに聞いて、たまに景色を見つめていて・・・。  レインボーブリッジ、東京タワーが近づいてきた。そう思うとやっと帰ってきたという気持ちになる。何千キロも離れた異国の地からやっと。浜松町から地下鉄に乗って、新宿へ抜ければ、たくさんの人で溢れていた。ドイツとは違って周りの人の歩くスピードは速かった。 「大丈夫?疲れてない?」 晴香ちゃんが優しくあたしに問いかける。あたしは「大丈夫」と言って微笑んだ。  巨大迷路みたいな新宿駅の構内を慣れた足取りで歩く裕介が逞しく思えた。新宿駅はあたしの大学でも〝巨大迷路〟として有名で、昔、東京へ観光しに行った同級生は地図を片手にカタコトの日本語でおまわりさんや駅員さんに聞きまくっても五時間はさまよったと言っていた。ほぼ地元民でもあるあたしでさえたまに迷うのだから、初めて訪れたひとにとっては高難易度だろう。  京王線のホームにたどり着くと、安心感が生まれた。急行電車に乗り、座席に座ると一気に脱力と睡魔が襲い掛かる。裕介と晴香ちゃんも少し疲れ気味なのか、何もしゃべることなく、電車は動き出す。しばらくして、ふと目が覚めた時、晴香ちゃんがあたしの肩に頭を載せて眠っていた。なんだ、このカワイイ生き物は。  駅の改札を抜けると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。やっとあたしの地元に帰ってきた。 「さてさて、お楽しみはこれからだよ」 晴香ちゃんがニヤリと笑う。あたしは、わけも分からないまま二人についていく。その時、ふと「あれ、裕介と晴香ちゃん、どっちの家もこっちの方向だったっけ?」と思った。どこか、見覚えがあるような無いような道を歩いていく。二人に案内されるがまま、たどり着いたのは一軒のアパートだった。あたしは不思議に思いながらも二人の後をついていくように階段を上る。そして、とある一室の玄関の扉をあけると、二人の男女がクラッカーを鳴らす。突然の事で、今の状況が上手く呑み込めない。 「おかえりなさい!」 裕介と晴香ちゃんが拍手をすると、もう二人の男女も拍手をする。 「えっと・・・誰?」 「まあ、そうなるな」 裕介が腕を組みながらうなずく。そして、二人の紹介をしてくれた。可愛らしい小柄な女の子は裕介の妹で、由貴ちゃんというらしい。そしてやたら自己アピールのクセが強い男の人は裕介の高校の時からの友人で鵠沼君というらしい。そして、このサプライズパーティーを企画したのも鵠沼君だということも聞いた。パーティーは本当に楽しかった。鵠沼君は本当に盛り上げ上手で、いろんなことをしてはあたしを笑わせてくれた。そして、驚いたのが、裕介と由貴ちゃんの兄妹仲がものすごく良いこと。ただここで一つまた、疑問に思ったことがあった。由貴ちゃんはずっと、晴香ちゃんの事を「ねえさん」と呼んでいたこと。最初は親しみを込めてそう呼んでいたのかもしれないと思っていたのだが、どうやらそういう雰囲気でもなさそうな感じだった。そして、そのいくつかの疑問がやがて一つになって答えが返ってきたのは、パーティーが終わって、裕介と二人きりになった時だった。 ・・・。  そうか、良かったじゃないか。あたしはその一言で、裕介に対する気持ちをねじ伏せようとした。それもそうだよね。あたしがドイツに行っている間だって、同じスピードで時間が流れているんだから。あの当時は、裕介とあたしは両想いだったかもしれない。もしかしたらあの場で裕介からちゃんと答えをもらっていたらきっと遠距離にはなるけども、付き合っていたかもしれない。今の晴香ちゃんのポジションにあたしが居たかもしれない。結局あたしは、何も罪がない裕介が謝る姿をみて、勝手に八つ当たりしてしまった。最低だ。ヒドイ女だ。  それから、お互いに気まずいまま、連絡もなく数日が過ぎた。日本を出発する時は、あんなにも研究員になるってタンカを切ったのに、いざ日本に帰ってからというもの、結局のところ進路は未だ決まっていなかった。とりあえず今年一年は浪人になる。せっかくドイツ語を勉強してきたのだから、それを生かせる仕事がしたいと思っている。ずっと家にいるのも悪いので、平日は駅前の学習塾で講師のアルバイトを始めることにした。中学生から高校生までの英語を受け持つことになった。ここの高校・大学に行きたいとか、明確なビジョンを持った子が多く、教える側としてもやりがいがあるし、意外にも楽しい。このまま、教師になってもいいかなって思えてきている。それこそ、あたしの卒業した高校はドイツ語も課程であるし、いいじゃないか。教えている子供たちに影響されたのか、あたしにも明確なビジョンを持てるようになってきた。そんなある日の帰り道だった。  あたしは、自分の卒業した高校のドイツ語教師になるべく、教員採用試験の問題集を読みながら音楽を聴いていた。横断歩道に差し掛かると、もうすでに赤になった信号に気づかずにあたしはそのまま渡ってしまった。ふと気が付くと横からはまぶしいライトの光とかすかに聞こえるクラクションの音。そして、一瞬であたしは道路に倒れていた。どこか生温かいような冷たいような感触が後頭部にあって、なんとなくだけど血が流れているんだなって、そしておそらく車を運転していた人だろう。聞き覚えのない男声が必死にあたしを呼び掛ける。遠くから救急車のサイレンの音が聞こえたところで、あたしの記憶は途絶えた。

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