そうだとしたら、大した精神力である。精神的な痛みを仕事に引き摺らず、仕事は仕事と割り切って仕事をする。中々出来ない芸当である。 恵は、なつみが傍に居るのに気づいていない。トイレには、自分一人しかいないと思っている。 心の痛みを解放し、痛みを吐き出していい空間なのに、そんな自分さえも許せないといった表情を浮かべる恵が痛々しく見え、なつみは思わず『松木さん』と声を掛けてしまった。 上司としてではなく、恵を辞めさせない為でもなく、一人の少女を救う為に声を掛けた。 今、なつみの心を支配している感情は、ミシオから頼まれ、苺に仕事を斡旋してあげた時の感情に近いような気がする。 その時も、友人であるミシオの頼みだから仕方なくではなく、ミシオに寄り添うようにして怯えていた苺を救いたくて、仕事を斡旋した。 声を掛けられた恵は『ハイ』と驚き声を上擦らせながら振り向き、急いで涙を拭うが、その後になんて言えばいいのか分からないらしく、私の首の辺りを見つめるしか出来なかった。 目を見て話しづらいのだろう。 「お昼、一緒にどう?」 なつみは、恵の顔をしっかりと見て提案する。恵はあからさまにではないけれど視線を合わせないようにしている。 「でも、仕事が…」 「上司命令」 「あっ…はい」 そう誘い、トイレを後にすると、恵は何も言わずに私の後を付いてきた。この雰囲気では、何を話しても作られた話になってしまうだろう。話し始めるのは、食事をしているタイミングが最適である。 店を出る前に亜由に声をかけ、今日は少し遅くまで仕事に入ってくれないか頼んだ。 亜由は恵の顔を見て何かを察してくれたのだろう、快く了承する。 無言のまま歩を続け、なつみは近くのおそば屋さんに入った。 店内に入り四人掛けの席に腰を掛けると、恵は丁度向かいの席に座った。だいぶ平常心を取り戻したようで、今の恵だけを見ていると、先程まで泣いていたのは察しれない程の表情になっている。 「奢るから、なんでも好きなのを選んで」 メニューを差し出すと、恵は素直に『ありがとうございます』と礼を言って、メニュー受け取る。 此処で遠慮をしてしまったら、却って雰囲気が気まずくなる。そういった流れをきちんと理解できているようだ。 なつみは天ぷらそばを注文し、恵は安くも高くもない、丁度中間に位置している値段である餡掛けそばを注文した。 「マズイところ、見られちゃいましたね」 注文を終えると、意外な事に恵の方から話しを振ってくる。 「心配してくださって、ありがとうございます。でも、大丈夫です。立ち直りの早さには、ちょっと自信があるんですよ」 いつも通りの笑顔に戻っていたが、先程の異様な泣き顔を見てしまっているなつみにとっては、その笑顔がより痛々しいものに見える。 「無理して、気を張り詰めすぎたら、反動が来るわよ」 「はい…でも、これぐらいで落ち込んでたらいけないんです。もっと強くなって、一人で生きていける自立した大人にならないと、いけないんです」 私に対すると言うよりも、自分自身に言い聞かせるように恵は語る。 これ以上は、敢えてこの話題を避けた。励ましが足りない気もするけれど、必要以上の励ましは疎ましく感じられる恐れがあるので、嫌な出来事を忘れさせる為に、無理をして明るく振るまい、楽しい食事を演出した。 ◇ 仕事を終えたなつみは、適当に時間を潰してから、ミシオの勤める風俗店に足を進めた。 同じ方向に進む人々を次々と追い抜きながら、目的のラブホテルに向かう。 この早足の原因は、苛立ちから来ている。 その後も、織絵はまるで楽しんでいるかのように恵を叱り続けている。 先輩として焦りを感じてしまうのは分かるけれど、躾が過多になっている。このままでは成長する前に押し潰されてしまう気がしてならない。
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