そうだった。あの時・・・・・ 娘の亜希の担当医である鈴鹿女医か らの再三の要請にもかかわらず、仕事にどうしても穴を空けるわけにはいかないとのことで、小夜子は亜希の入院を渋った。 結局、「お母さん、書類関係は後になっても構いませんから、直ぐに、直ぐに亜希ちゃんだけでも病院に寄越してください。お願いします。なんなら、私がお宅に伺って、亜希ちゃんを連れて行きます。そうします。是非、そうさせて下さい」 この鈴鹿女医の悲痛な願いにより、亜希が〈小児医療総合センター〉の脳神経外科病棟に入院したのは、栗原美津江と一緒に 検査で来院した日から既に一か月も経った頃だった。 小夜子にしても、亜希の入院については、母親としての心配や焦りの気持ちは持ち合わせていたのかも知れない。だが、思い入れを示す天秤が、どうしても娘よりも仕事に振れてしまったからなのか、亜希の面会に出向いたのは、入院した翌週の火曜日になってからのことだった。しかも、一日休みを取るではなく、時間休を取って、職場を一時抜けてのことだった。 午後三時過ぎにセンターに到着した小夜子は、四階でエレベーターを降りると、東側に位置する脳神経外科病棟の亜希の入院している病室へと続く廊下を急いだ。 「410号室」本来この病室は二人部屋のようだが、今は亜希の名前のプレートしか掛かっていなかった。 ハート模様をあしらった淡いピンク地のカーテンを引くと、部屋の奥の窓際に置かれたパイプベッドが目に移った。 「ママ・・・・・・」 カーテンを引く音に反応して、ベッドに寝かされている亜希が入り口の方へ顔を傾けた。それと同時に、傍らの椅子に腰掛けていた人物が立ち上がった。 「亜希・・・・・、それに先生も」 「亜希ちゃん、お母さんがいらして、よかったわね」鈴鹿女医は小夜子に会釈をすると、亜希の顔に眼差しを戻し、温かく微笑んだ。 「亜希、どうなの。大丈夫なの?」 「うん。ママ、お仕事は?」心なしか顔色が青白っぽく見える亜希が訊ねた。 「ええ。今日は時間が空いたから・・・・・。そうだわ、ママ、仕事場から直接来たので、入院に必要な物を持ってこなかったわ。パジャマの替えとか。そうだ、後で買ってくるわね」すると、亜希が鈴鹿女医と顔を見合わせニッコリと微笑んだ。 「先生が、亜希のお気に入りを用意してくれたから、大丈夫だよ、ママ」 「お母さん、差し出がましいことをしましたが、当面必要な物は私の方で用意させていただきました」 小夜子が視線を斜めにずらすと、サイドテーブルには、亜希のお気に入りのキャラクター、ハリネズミのニッチとサッチの描かれた歯ブラシとコップが置いてあった。そして、亜希が今着ているパジャマも、亜希の喜びそうな花柄をあしらった、可愛くて着心地のよさそうな品物であった。 「本当に何から何まで申し訳ありません」この時、恐縮するように、小夜子は鈴鹿女医に対し頭を下げ、お礼の気持ちを口にはしたが、終始、優し気な眼差しを亜希に向ける鈴鹿女医の横顔を見ると、 (なんか、この先生の方が私より亜希の母親みたい。私なんか、いてもいなくてもいいみたいじゃない)ごつごつと節くれだったような本音が、小夜子の脳裏をザラザラと過ぎるのだった。
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