キッチンシンクじゃ泳げない
14-♥♥♥♥♥♥

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 今年は空梅雨だと言われながらも、じっとりと梅雨特有の湿気を多分に含ませた重苦しい大気を肌で感じ取れる時節が訪れた頃・・・・・ 「お母さん・・・・・」やつれ果てたように頬も痩せこけ、目の下には痣のような隈も浮いている鈴鹿女医に病棟の廊下で呼び止められ、腕を捕まれた小夜子は、一瞬、ギョッ!となって立ち止まると、鈴鹿女医の顔をまじまじと見つめ直した。 「先生・・・・・」小夜子が絶句すると、鈴鹿女医は何日もろくに眠っていないような充血した目で小夜子の顔を食い入るように見つめると、 「お母さん、今日からは片時も亜希ちゃんの許を離れないで下さい。私の言いたいこと、お分かりですよね。絶対に・・・・・ですよ」掠れた声で鈴鹿女医は、小夜子の心に折り畳むように言葉を投げ入れた。 「亜希はそんなに・・・・・」鈴鹿女医はゆっくりと首を縦に振った。 「でも」小夜子は口の端に引っかかった言葉を掻き消した。 「申し訳ありません。私が医師として至らないばっかりに・・・・・」鈴鹿女医はガックリ肩を落とすと、そのまま膝から床に崩れ込んだ。  そう・・・・・・  あの「でも」と言った後、小夜子は、「明日の午後からは、どうしても抜けられない大切な会議があって」と言葉を続けるつもりであった。だが、鈴鹿女医にすれば、小夜子から責められる言葉を投げかけられると思い込み、しかも、精神的にも肉体的にも極度に参っていたこともあって、その場に倒れ込んでしまった。  その様子に驚き、ナースステーションから駆けつけてくれた看護師に鈴鹿女医を託すと、小夜子は亜希の病室へ入って行った。  まだ、午後の二時を少しまわった時刻なのに、空を覆う薄墨色の分厚い雲の塊が、陽の光を遮断してしまったためか、病室の中は夕暮れ時のようにうす暗かった。  死の影法師に抱きすくめられたような静寂な病室で、酸素を吸入するための、ガラス容器の中で発生する酸素の泡粒の音だけが、今ここにある現実の世界を感じさせていた。 「亜希・・・・・」小夜子はベッドに横たわる亜希に呼びかけた。 「・・・・・」 「亜希、眠っているの」元気な頃の面影も消え失せ、病魔とそれに贖うための薬と放射線によって、青白く浮腫んでしまった亜希の顔を小夜子は覗き込んだ。 (どうなるのかしら。これから先・・・・・。このまま長い間・・・・・そんなの、困・・・・・)この時、小夜子の頭の中で、スパークしたように明日の会議のイメージが拡散した。居並ぶ重役を前に、商品開発チームのチーフとして、小夜子が熱弁を振るっている。そして、説明を終えた後の賞賛の嵐と社長からの商品化へ向けた満足げなゴーサイン。小夜子と一緒に頑張ってきたメンバーの安堵の溜息。そして、自分たちをここまで引っ張ってきた小夜子に向けられた尊敬と親愛の眼差し。 (これからだわ。これからが勝負よ)光のスパークが一瞬にして閉じたその時、小夜子の目に映っていたのは透明な一本のチューブであった。  その・・・・・、亜希に酸素を送り届けるそのビニールチューブに、小夜子の指が無意識に伸びた。 (これを・・・・・)親指と人差し指で、そのつるりとした感触のモノを摘んでみる。 (これを、こう・・・・・)小刻みに震えながら、小夜子の指に力が加えられる。  ゆっくりと内へと歪んでゆく・・・・・そのチューブ。 「ママ」 亜希の突然の声に、反射的に小夜子の躰がビクンと震え、仰け反る。 「ママ・・・・・」苦しげな息のもとで亜希が再び呼びかける。 「亜希、あなた・・・・・、どう、いえ、大、大丈夫なの」小夜子の背筋に冷たい汗が一筋流れ落ちる。 「うん・・・・・。ママ、お仕事はいいの」 「何を言ってるのよ、亜希」 「行っていいよ。忙しいんでしょう」 「あなたを放っておけないでしょう」小夜子の心に空々しい無数の細波が立った。 「でも、明日の午後から、ママ、とても大事な会議があるから・・・・・、でも、夕方にはきっと来るから」 「うん・・・・・。うん・・・・・分かった、分かったよ、ママ・・・・・」風船から空気が抜け出るように亜希の声が細くなって途絶えた。 「亜希、亜希・・・・・」亜希が眠りに落ちたのを確認すると、小夜子は急いで職場に戻るため、踵を返して病室を後にした。

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