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「嫌だわ。また明日は土曜日・・・・・」川村テル子は、庭に出ると物憂げな動作で乾いた洗濯物を取り込み始めた。そして、時折その手を止めると、暗い瞳で隣家の窓の方を窺った。  月曜日のあの恐ろしい出来事は、自分の心の中で、主人の墓参りから疲れて帰って来た後の昼寝の最中に見た悪夢だったという形で気持ちを整理し、自分を無理矢理納得させることにした。  だが、あの日以来、買い物や散歩に出かけた際には、また、あの濡れたような大きな目をした灰色の犬が、電柱の陰から突如その姿を現さないかと、おどおどしていた。いや、それどころか、飼い主と同伴で散歩している犬を見ただけでも、テル子は両手で両耳を覆うようにし、恐怖にかられた表情で、小走りにその場を立去るという行動を取るようになっていた。 「気にし過ぎなのかも知れないわね、私ったら。でも、全てはあの人がいけないのよ。いつも、人の気に障る事ばっかり言うんだから。いつも、いつも。私と関係ないんだから、ほっといてくれたらいいのに」洗濯物を籠に放り込みながら、テル子は念仏のように、口の中で粘っこく唱えだ。  何をもって、こうした症状が現れ始めたのかは定かではないが、テル子は自身を隣人の吉井佐和子に置き換え、その妄想の渦の中で、息子夫婦、娘夫婦、そして孫といった自分を取り巻く家族から愛され、大切に処遇され、そして、こよなく慕われている虚像を描き出すようになっていた。すると、その虚構の中で飛び交う言葉と言葉が繋がり、それが会話となって、頭の端々で鮮明に浮かび上がった。すると、それらがグルグルととぐろを巻くように途切れることなく巡回し、徐々に大きなうねりとなって、テル子の思考を雁字搦めに縛り付け、気も狂わんばかりの不安と苦痛をテル子にもたらすようになっていった。  この頭の中に溜まり溜まった得体の知れないドロドロとしたものを何とかしなければ、という脅迫観念から、ある時、テル子はテレビ画面に映し出されている人物に向かって、その言葉の塊を口から矢継ぎ早に放射し続けた。  そうすると、不思議なことに気持ちが安らぎ、急に頭の中にこびりついていた垢のようなものが削ぎ落されたように、スッキリとした爽快な気分になり、普段の川村テル子に戻ることができた。  それ以来、テル子は、その症状の芽生え始める月曜日になると、誰彼構うことなく、出会う人に対し、吉井佐和子の境遇を真似た幸せな川村テル子を演じ、真顔で語って聞かせるようになってしまったのだった。 「そうだわ。明日は、お隣がまた騒々しくならないうちに、出かけてしまおうかしら。この分だと、明日も良いお天気そうだし」テル子は洗濯籠を手に下げたまま、夕焼けで茜色に染まった空を見上げた。 「そうだ。久しぶりに映画でも観て、ホテルに泊まるっていうのもいいわね。一泊して、日曜日の夕方に帰ってくれば、私の大嫌いなお隣さんの恒例行事に悩まされることもないもの。でも・・・・・、そうね。そうよね。仏壇のあの人にお線香をあげてお参りしないといけないし、毎日、お水やご飯をお供えしないと、可哀想だわね。やっぱり、泊まりは無理のようだわ。日帰りで、映画を観て・・・・・そうそう、この間入った感じの好い喫茶店でお昼をまた食べようかしら。いいわね。あの親切で優しいお嬢さんにも会えるし。そうそう。それが良いわ。そうしましょう」テル子は一人頷いた。

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