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「アタシは、自分のいいように良江を縛っていたのかもしれない。あの子の言うこと、なすことに反対して、自分ではあの子のことを思ってのことだと信じていても、結果的にはあの子の自由を奪って、人生を台無しにしてしまったのかもしれない」ベッドに仰向けに寝かされている水口多恵は静かに目を開け、所々に黄ばみのある天井の石膏ボードを見つめた。 「あの時も・・・・・良江が結婚したい、とアタシに告げた時も・・・・・・あの男と結婚したって、うまくいくものかって、むげに反対して、良江の気持ちを踏みにじって、あの子を傷つけてしまったんだ。アタシが内緒で良江が働いている工務店の社長の浩志さんに、従兄弟のよしみで、あの男のことを頼んで調べてもらったら、多恵ちゃん、あの男は、パッと見じゃ、優しそうで、気も廻るいい奴のようだけど、けっこう酒癖も女癖も悪いって噂だよ。良江ちゃんの気持ちを考えると不憫だけど、この結婚話は反対した方がいいんじゃないかな。俺だったら、反対するね、多恵ちゃん。でも、アタシのしたことは、本当にあれで良かったのかね・・・・・・あのまま結婚していても、良江は幸せになれたのかも知れない。アタシが自分の我を押し通したばっかりに、良江の人生を、ねじ曲げたと言えないこともないじゃないか」多恵の深い皺の寄った両方の目尻から、涙の糸がスーッと流れ落ちた。視線を足下に移すと、くだんの白い〈のっぺらぼう〉が数匹うずくまるようにその姿を見せた。そして、突然、その中の一匹が多恵の流した涙が白いシーツに染みて、シミを生じさせた瞬間、フワリと消え失せた。 (まあ、いいか・・・・・・)多恵は視線をもう一度天井に戻した。 「東海商事・・・・・・だっけ。良江が短大を卒業する時に就職したいって言っていた会社の名前。内定をもらっていた会社なのに、あの時もアタシが反対して、お前に商社なんて向かない。途中で嫌気がさして辞めるに決まっている、なんて、随分乱暴な言い方をして、内定をもらって喜んでいる良江の気持ちをズタズタに切り裂いて、アタシは母親にあるまじきことをやってしまった。良江と一緒になって喜んであげればよかったのに。それどころか、従兄弟の工務店で雇ってもらうように決めてきたから、東海商事の方は断っておいで。だなんて・・・・・・良江が自分で決めた会社に勤めた方が、あの子のためには良かったのかも知れない。アタシが、アタシが勝手に、従兄弟の工務店なら、仕事もそんなにきつくもなく、残業も滅多にないから、良江が趣味などを持って自由に楽しい人生を送れると思ったし、工務店なら若い職人なんかもいっぱい抱えているから、堅くて良江に合ういい人にも巡り会えると、勝手に考えたりもしたものだから。だけど、東海商事に行った方が良江のためになったのかも知れない。とどのつまりは、アタシの都合で良江の人生を狂わせたのかも知れない」多恵の瞳にフツフツと再び熱いものが湧上がり、喉の奥を絞るように、「良江・・・・・・すまなかったよ、良江」と声を押し出した。すると同時に、足下の白い〈のっぺらぼう〉がまた一匹消え去った。 「そうだった・・・・・・あの時もそうだった。アタシは良江の気持ちを頭ごなしに叱りつけるように反対したんだ。高校卒業後の進路について、良江から看護婦になりたいから看護学校へ進学したい、って打ち明けられた時・・・・・お前に看護婦の仕事なんかできっこないよ。無理に決まっているさって、冷たく突き放すような断定的な言い方をして、その後も追い打ちを掛けるように、愛想の悪いお前じゃ患者も嫌がるさ。別にこんな余計なことまで言う必要もなかったのに・・・・・・」多恵は苦いものを味わうように口元を歪めた。 「あの時も、良江には看護婦の仕事が向かないと思ったし、苦労の挙げ句、その仕事をほっぽり出してしまうか、アタシへの意地から苦労を引きずる良江の姿がハッキリと思い描けてしまったから。でも、これも結局どうなったかは誰も分からない。案外、生き生きと働き、患者に笑顔を振りまく良江がいたのかもしれないし、アタシは、アタシは一体、良江の母親として何をしていたんだ・・・・・・あれ以来、そう、あれから良江はアタシに笑顔を見せなくなった。当然の報いだ」悔恨の思いを噛み締めるように、多恵は自分の干涸びた薄い唇を噛み締めた。すると、またしても、足下にうずくまっている白い〈のっぺらぼう〉の姿が一つ消え失せた。 「もっと昔にも・・・・・・あれは・・・・・・そう」多恵がぼんやりと記憶の糸を手繰り寄せようとするかのように、見つめる天井の石膏板の細かな模様をゆっくりとなぞっていくと、斑点のような塊に落ち着いた。 「そうだった。斑の子猫・・・・・・良江が公民館の所に捨てられていた子猫を拾って、家に持って帰って、この猫を飼いたい、って言った時だった。アタシは、お前に生きものなんて飼えやしない。こんな酷い言い方で頭ごなしに叱りつけたんだった。あの時も、アタシ自身が毎日朝から晩まで働いてはおらず、少しは家に居る時間があったのなら、子猫の世話も良江の肩代わりもできたから、あの子猫を飼ってやることもできたのに。そうすれば、無碍にあんな言い方もすることもなく、良江の弱い生きものに寄せる優しい気持ちを解ってあげることもできたのに。アタシは残酷にもそんな良江の温かい思いやりの芽を摘み取ってしまったのかもしれない。なんて母親なんだ、アタシは・・・・・・いや、母親なんて、言えやしない。良江にとっての厄介者。そして、今もこうしてお荷物になっているんだから」多恵の両目から溢れ出る涙が視界を朧気に包み込んだ時、多恵の歪んだ口元から嗚咽が漏れた。こうして、最後に残った白い〈のっぺらぼう〉の姿も掻き消された。

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