キッチンシンクじゃ泳げない
14-♥♥♥♥♥♥♥

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 小夜子が亜希の許を去って二十数時間後に、満八歳になる娘の亜希は息を引き取った。  小夜子にとって、娘の亜希より比重が重く、天秤が大きく下へと振れてしまう重要な会議が終わった時、総務課の女性社員が切羽詰まったような顔で、慌ただしく会議室に入ってくると、一枚のメモを小夜子の手に握らせた。 「急いで行ってください。もう、一時間も前です。私、やっぱり・・・・・」贖罪を背負わされたような情けない表情でこう付け加えた。  そこには、小夜子の予期していたとおり、亜希の危篤の報が記されていた。小夜子は会議室に入る寸前、ケイタイの電源をオフにしたのは言うまでもないが、娘の亜希について病院からの呼び出しがあっても、会議が終わるまでは決して知らせないようにと強く念を押していたのだった。  弔い雨を匂わせるように、風景を歪ませ、静謐な時間の淀みを感じさせる雨に打たれながら、小夜子は病院に到着した。  今日は、いつもと違って、病室の扉は堅く閉められ、その扉越しに、二種類の女性の糸を引くような嗚咽の声が小夜子の耳に届いた。 (そうか・・・・・)小夜子の心臓が高鳴った。  小夜子が病室に滑り込むと、刺すような視線を肌に感じた。 「小夜子!一体あなた、何を、何をやってたのよ!亜希が・・・・・亜希が・・・・・」  ベッドの傍らから小夜子の母親が目をつり上げて迫ってきた。そして、涙でぐしょぐしょになった顔で小夜子に対峙すると、右手を大きく振り上げた。 「母さん・・・・・」この瞬間、強い意思を感じさせる太い声が病室に流れた。  母親は咄嗟にその声の主の顔を見詰めた。そして、その声の主は絶句するように息を飲み込むと同時に、 「母さん、そんな奴、叩く価値なんてないだろう。さぁ、小夜子、ここに来て、亜希に早く会ってやれ。亜希はずっとお前を待っていたんだぞ」そう憮然とした声で促した。  小夜子が黙って身体の横を通り過ぎると、支え棒を無くしたように、母親はその場にしゃがみ込んだ。 「あの時、亜希を連れて帰らせるんじゃなかった。私たちが亜希を引き取っていたら、こんな不憫な目に遭わせなくても済んだのに・・・・・」母親は涙を撒き散らし、拳を床に打ちすえた。  本来なら小夜子が占めていなければならない空間に導こうと、決して枯れることのない涙で頬を濡らしながら鈴鹿女医が、自らをベッドサイドの後ろに退かせながら、 「お母さん・・・・・」と、小夜子に呼びかけた。そして、力の籠った瞳で小夜子の横顔を見据えると、 「亜希、ママのことが好きだったのに。これが、亜希ちゃんが最後に言い残した言葉です」そう言ったきり顔を両手で覆ってしまった。  衝撃が走ったように、小夜子の瞳が大きく見開かれた。と同時に・・・・・、 「亜希、ママのことが好きだったのに」 「亜希、ママのことが好きだったのに」 「ママのこと・・・・・」 「好きだったのに・・・・・」 「亜希、ママのことが好きだったのに」亜希が今際の際に残したフレーズが走馬燈のように頭の中でグルグルと弧を描きながら響いた。

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