「本部長、明日は七時半にお迎えに参ります」小杉小夜子は涼しげな眼差しの秘書から黒革のブリーフケースを受け取った。 「そう。じゃ、よろしくお願いね」 「失礼いたします」深々と一礼し、若々しい所作で踵を返し、肩にかかった黒髪を揺らしながら去って行く女性秘書のスレンダーな後ろ姿を見つめながら、小夜子はフーッと物憂げな溜息を漏らした。 (私も昔は、もう少しは・・・・・でも、今じゃ、こんなになっちゃって)ブルブルッと悪夢を振り払うように顔を振ると、小夜子はドアの施錠を親指の指紋認証で解除し、疲れた足取りで部屋の中へと入った。 小夜子が一人で住むには広すぎる、豪華なマンションの一室。二年前に取締役で本社の商品開発本部長の役職を拝命した折りに、その地位に見合う、本社ビルから車でほんの十分程度の所にある、緑豊かな丘陵地に聳える高級マンションの一室を、会社から宛がわれていた。 小夜子が廊下からリビングへと通じる扉を開けると自動的にリビングの照明が灯された。 視線を流すように移し、艶やかなマホガニー材のキャビネットに置かれた大理石の時計を眺める。時計の針は午後の十時二十二分を指していた。 秘書から受け取ったブリーフケースと肩に掛けていたアルマーニのバッグを革張りのソファーの傍らに無造作に投げると、その横に小夜子は自らの身体を沈めた。 ソファーに腰を下ろす際、その身を屈める動作に合わせて、キャビネットのガラス戸に自分の姿が否応なく映る。 身体のサイズに合わせてオーダーした、柔らかそうな布地の服に隠された、こってりと不愉快な体のライン。 頬からは余分な肉が垂れ落ち、幾重にも溝が刻まれた顎から首への肉塊。 熊手のような目尻の皺から落ち込んだ下瞼と、今はファンデーションで何とか欺いてはいるが、その深くて暗い目の隈。 (時間が経ったんだから。そう、時間が・・・・・もう二十年にもなるんだもの) 心の中でそう呟くと、小夜子はガラスのセンターテーブルにひっそりと立て掛けられた桜色のフレームの写真立てに見入った。 小さな写真立ての中の一枚の写真。 その写真を小夜子は放心したように見つめる。と、突如、瞼に涙が溢れた。 「亜希・・・・・」 「亜希・・・・・」感情を迸らせるように、小夜子は赤いランドセルを背負った、あどけない女の子の写真に向かって叫んだ。 堰を切ったように、溢れ出る涙が、両方の目から頬を、そして唇を伝わり、流れ落ちた。二筋の涙の河は小夜子の化粧を崩し、顔の下半分をおぞましい色合いに染め上げる。 震える手で写真立てを掴むと、小夜子は再び幼くして逝った娘の遺影に向かって、声を上げた。 「亜・・・・・」この瞬間、時間が剥ぎとられたように、小夜子の身体がその姿態のまま固まった。
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