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「栗原さん、ランチあがったよ。栗原さん?あれっ、栗原さん・・・・・・?」藤村隆司の呼びかけに、ハッと我に返った美津江は取ってつけたような照れ笑いを浮かべた。 「今度は、さっき店を出て行ったカルボナーラのお客さんのことが気になったわけ?」 「あれっ、マスターって意外と勘がいいんですね」 「何、言っているの。店を出た後もガラス越しに、あの女の人の背中を火傷でもしそうなほど熱い視線で追いかけているんだもの。誰だって気がつくよ」 「そうなんですよ。何だか、またまた気になって・・・・・・。いけない!マスター、そのランチ直ぐに持って行きます」 そうなのだ。カフェレストランにとってのランチタイムはヤッパリ無性に忙しい。 「マスター、今日のランチ、よく出ましたね」美津江は、最後に残った二人連れの若いサラリーマン風の客を店から丁重に送り出すと、凝りをほぐそうと両肩を交互に上下させながら、藤村に話しかけた。 「そう、そう、大盛況。だから、本日のランチはめでたく完売」 「えっ、売り切れですか。私も、お昼はランチをお願いしようと思っていたのに、ショック」美津江が心底しょげたように肩を落とした。 「まあ、まあ、栗原さん、そんなに落ち込まないでよ。また今度、特製のやつを作って差し上げるからさ」 「本当に?約束ですよ、マスター」美津江が気を取り直したようにニッコリ微笑むと、厨房の中で食器を洗っていた景子も嬉しそうに微笑んだ。  この時、何時もよりこじんまりした鈴の音とともに、店の扉が遠慮がちに開けられた。 「いらっしゃいませ」間髪を入れずに、美津江の声が響いた。 「ああ、そうね。この雨傘、ここに立てかけてと。さて、どこの席にしようかしら。あら、いつもの席も空いているのね」黒い装いの老婦人がゆっくりと窓際の円形テーブルの方に移動した。 「私一人なのに、四人掛けのテーブルを占領してもいいのかしら」 「そんなこと気になさらないで、お好きなところにお座り下さい。それに、今はご覧のように、お客様お一人だけですから」厨房からマスターの藤村が応じた。 「さあ、どうぞ」テーブルの上にグラスに入った氷水とおしぼりを置くと、美津江が籐で拵えた椅子の一つを引いた。 「お嬢さん、ありがとう。そうね、今日は朝から雨が降っていたでしょう。でも、やめる訳にはいかないのよ。亡くなった主人のお墓参り。今日は月命日だし。お墓っていっても納骨堂なんだけどね。このご時世だから。ほら、ここから南に少し行ったところにある福音寺さんの。あらあら、お嬢さん、ご免なさいね。注文よね」頷きながら、この老婦人の話に耳を傾けていた美津江が、メニューを広げて差し出した。 「そうね。そうだわ。サンドウィッチがいいわね。このミックスサンドにするわ。それと、飲み物は・・・・・・ミルク。温かいミルクをお願いね。雨もやんだし、日差しが出てくるといいんだけど」 「大丈夫ですよ。朝の天気予報だと、午後から晴れるって言っていましたから」 「そうなの。じゃ、大丈夫だわ。近頃の天気予報はよく当たるんだもの。それに、矢張り春はお天気の方が気持ちいいものね」美津江はニッコリと一礼すると、ステンレスのお盆とメニューを抱えて、厨房の方へと戻って行った。 (こうした平日の方がいいわね。家族連れもいないし・・・・・・)  白髪をきれいに結い上げ、後ろで束ねた、老婆というより老婦人という表現がピッタリとくるこの女性が、ガラス越しに外を行き交う人の姿をボンヤリと見つめながら、心の中で呟いた。  この時、天を厚く覆っていた雲の塊の一部が何者かに穿たれたように、そこから、一条の陽光が地上に走った。すると、それに連鎖するように、幾筋もの陽光が天から降り注いだ。 「あら、あら、お嬢さんの言った通りになったわ。日が差してきた」  窓の白いレース地のカクテルカーテンを透かして、柔らかな光がこの老婦人のテーブル席を包むと、そのカーテン地の模様が、テーブルの表面に不思議な綾を織りなした。すると、この老婦人は、何らかの意思を掬い取ろうとするかのように、このダークグレーの綾を物思いに耽るように見つめ続けた。

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