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「ママ、さっきの白い風船、どこへ飛んで行くのかな?」 「えっ・・・・・・」社内プロジェクトの初のチームリーダーとして、今週の金曜日の午後から組まれている新商品開発に先駆けてのプレゼンに臨む小杉小夜子にとっては、ずっと、そのことばかりが気にかかり、そのプレゼンでの場の情景ばかりを反芻するように、頭の中で思い巡らせていた。だから、娘の亜希が自分に投げかけた言葉を、ついうっかり聞き逃してしまったのだ。 「えっ・・・・・・、亜希、今、何か言った?」 「うん。だから、さっきの風船のこと」 「風船・・・・・・。ああ、あの白い風船のこと・・・・・・。そうね、きっと、昨日の日曜日、この辺りで何かのイベントでもあって、その時に木の枝にでも引っかかっていたのが、この風で飛んできたのよ」 「そうじゃなくて。亜希、さっき、ママが見ていたあの白い風船、これからどこへ行けばいいのかなぁって、そう思ったの」亜希は小夜子の覚束ない顔を、大きな黒い瞳で、下から見つめた。 「そうね・・・・・・」亜希の食い入るような瞳が小夜子の瞳と重なった。 さっき、白い風船が小夜子の頭上を大きく揺れながら浮かび、この嵐のような強風に引っ張られるようにして飛び去ろうとしたのを目の当たりにした時、小夜子はある思いに一瞬囚われた。それは、母親としてあるまじき思いであった。 (あの風船がどこかへ飛んでいくように、娘の亜希が私の手元からいなくなれば、どんなに・・・・・・)と。そして、我知らず何かを呟いてしまっていた。だから、その自分の心に思い描いた思惑を娘の亜希に悟られてしまうのが怖くて、下から覗き込む亜希の視線を敢えて切るようにしてはずしてしまうと、 「ねえ亜希、そうだ、亜希はオムライスが好きだったよね。帰りに、さっき通ったあの店で食べようか」と、わざとらしく娘の気を引くような話題へと誘っていった。 この時、亜希の濡れたような瞳の奥が一瞬、キラリと鋭く光った。だけど・・・・・・、 「うん。そうだね、ママ」無邪気に微笑むと、亜希は素直に頷いた。 「そう。じゃ、十時に診察の予約を入れてあるから、少し急いで歩こうか。雨にも負けず、風にも負けずということで」小夜子もにこやかに微笑んだ。けれど、心の奥底では自嘲するような苦笑いとともに、(あの時と同じ思いだ)と感じる記憶の断片が、心の闇間から沸々と泡立つように蘇えってくるのだった。

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