作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 数回の呼び出し音が、小夜子の心臓の鼓動に合わさって鳴った。その後・・・・・・ 「もしもし、小倉ですが・・・・・・」懐かしい男性の太い声が響いた。 「お父さん・・・・・小夜子です」 「どうしたんだ、小夜子、何かあったのか」 「亜希がね、父さん・・・・・・借りっぱなしになっている傘を返しに行こうって」 「そうか。亜希も元気にしているんだな」 「それが、明後日の月曜日に入院するの」 「入院って・・・・・・亜希が・・・・・・いったいどうしたんだ、小夜子」 「小児総合医療センターで検査してもらったら、脳に腫瘍があるって言われて」 「腫瘍って、それってまさか・・・・・癌ってことなのか、小夜子」  癌という言葉に、傍らで夫と娘の遣り取りを聞いていた母親の身体がビクンと震えると、夫の顔を硬い表情で見つめた。 「・・・・・・」小夜子は携帯を握りしめたまま押し黙った。 「そうか・・・・・・そうなのか」父親は小夜子の沈黙からその意を悟ると、 「で、亜希は大丈夫なんだろうな」 「私、亜希をどんなことをしてでも元気にしてみせるわ、お父さん。お母さんが私に愛情をいっぱい注いで大切に守り育ててくれたように、私もお母さんを見習って、亜希には同じようにいっぱいの愛情で包んで、絶対に元通りに治してみせる。お父さん、私、本当に馬鹿だった。自分のことだけしか考えないで、自分以外の人のことをなおざりにして、私の周りの人の気持ちなんてちっとも考えないで、独りよがりで我が儘に生きてきたんだわ。私、そうなの・・・・・・あの時、お母さんの言ったとおり、本当は亜希をお父さんやお母さんに押しつけるつもりだったの。お母さんの言ったことは図星だった。だから、私の気持ちを見透かされたように言い当てられたものだから、私、亜希への裏切りの思いを、後ろめたい思いを隠そうとして・・・・・・、お母さんにあんな酷いことを言ってしまって・・・・・・私、私・・・・・・」小夜子の瞼から熱いものが溢れ、頬に伝わった。 「小夜子からだ、母さん。亜希が入院するらしい」受話器が静かに受け継がれた。 「小夜子・・・・・・」優しく労るような細い声が美津江の耳に届いた。 「お母さん、私、私、ご免なさい。ご免なさい・・・・・・許して、お母さん」 「何を言っているの、小夜子・・・・・許すも許さないも、あなたはいつでも私の大切な娘じゃないの。そうでしょう、小夜子。私こそ、感情的になってしまって、亜希の前だというのに、あんな言い方をしてしまって、ご免ね、小夜子」母親の目尻からも涙が幾筋も流れ落ちた。 「私ね、お母さん。今になって、今になって、何が自分にとって一番大切かってことが分かることができたの。私、今の仕事を辞めて、片時も亜希の側にいようと思っているの。いつも亜希と一緒にいて、そして、亜希を元通りの元気な亜希にしてみせるの。こんな当たり前のこと、もう少し早く気づけばよかったのにね、遅いよね、お母さん」 「ううん、小夜子。遅くなんかないよ。私もお父さんも応援するから、あなたと亜希が幸せになるように二人で応援するから、みんなで亜希の病気を必ず治しましょうね」 「ママ、傘・・・・・・」この時、亜希が美津江の耳元で囁いた。 「そうだ。亜希がね、長い間借りっぱなしになっていたお母さんのあの傘を返しに行こうって。それでね、明後日の月曜日の午後から亜希が入院することになるから、明日の日曜日か、月曜日の午前中にでも、どうかしら」 「そう。そりゃ、何時でも母さんはいいけど。でも、入院の支度もあるだろうし、家で亜希とゆっくりと過ごす時間を作った方が・・・・・・。そうだわ。亜希の入院の日に私とお父さんが病院に行くのはどうかしら・・・・・亜希がどこに入院するのか見てみたいし」 「ええ。いいわよ、お母さん。でも」 「でも、何なの、小夜子」 「でも、不思議だなって思って」 「えっ、何が不思議なの、小夜子」 「うん。涙って、悲しい時よりも、嬉しい時の方が余計に出るものなんだね」 「そうね。母さんもそうだよ。小夜子の言うとおりだわ。今、一生分の涙が溢れ出たみたい」そして、小夜子と母親から晴れ晴れとした穏やかな笑顔が波紋のように広がっていった。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません