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「高くつくわね」天井へ昇ってゆく煙草の煙を虚ろに見つめながら、おもむろに良江の唇が動いた。 確かに、有料の高齢者介護施設の費用は良江にとって、いや、一般的な家庭にとっても、決して安くはない金額だった。  母親の多恵が認知症を患っているため、個室をあてがわれてはいるものの、毎月、母親の国民年金の一ヶ月分の全額と良江の給料の半分近くを足した金額がその支払いに充てられた。  だが、良江にとって、経済的にはそうした悲惨な状況であっても、母親が施設へ入所したことによって、精神的に開放感を得られたということは否めない事実であった。  毎週、勤め先が定休日である月曜日に、朝の用事を済ませてから、母親の様子を見るために、施設へ通うことだけが、今の良江にとって、娘としての責任と義務を担う唯一の機会となっていた。そして、その時には、駅と施設とのほぼ中間地点にあるこの喫茶店に立ち寄って、少し早めのお昼を取ることも、一つの習慣となっていた。  煙草の 吸い口を唇に持って行きかけた時、突然、降って湧いたように、良江の脳裏に先週の光景が過ぎった。  そう、先週の月曜日。いつものように母親の多恵に会うため、昼過ぎに〈喜寿の里〉を訪れた時のこと・・・・・・。 「母さん、来たよ」良江は声をかけて、入り口のアコーディオンカーテンを開けた。 部屋は六畳ほどの広さの洋間で、トイレと洗面所が備え付けられている。南西側に窓があり、真昼の陽光がレースのカーテンを通して、部屋に注ぎ込まれ、その窓の手前に置かれたベッドにまで日差しが達していた。 「母さん、眠っているの?」良江がベッドに近づき、白いシーツからはみ出ている多恵の顔を覗き込んだ、その次の瞬間、 「幸恵、何をしているの。早く、姉ちゃんの所へおいで!」突然、深い皺の間から目が見開かれ、白いシーツを押し出すように、静脈が浮き出た細い両腕が何かを掴もうとしているように伸びてきた。 「母さん、何を言っているのよ。私、私、良江よ。幸恵叔母さんは三年前に亡くなったでしょ」 「お父ちゃんも、お母ちゃんも防空壕の奥にいるから、幸恵も早くおいで」 「母さん、もう、しっかりしてよ!」多恵は娘の良江に向かって、寝たままで、おいで、おいで、と招くように虚空で両手を振っている。 「もう、母さん、しっかりしてよ!!」良江が堪りかねて、つい大きな声を出した時、 「水口さん」後ろから、誰かに肘をそっと捕まれた。 「お母さん、きっと戦争中の夢を見ていらっしゃるんですよ」淡いグリーンの制服を身につけた三十過ぎの介護士が静かに良江に告げると、ベッドに近づき多恵の手を両手で握りしめた。すると、 「水口多恵さん、もう大丈夫ですよ。幸恵さんは、ここにいますよ」と、語りかけた。 そして、多恵が満足げに頷くと、そのの表情を掬い取るように、 「もう戦争はずーっと昔に終わってしまったんですよ。だから、安心して下さいね」と優しく包み込むように言葉を続けた。その声に安心したのか、多恵が目を閉じた。すると、今度は良江に向き直ると、 「水口さん、お母さんのような認知症を患っていらっしゃる方には、何事も肯定的に受け止めてあげることが必要なのです。何事においても否定することは・・・・・・」

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